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2019年10月16日水曜日

公共保守党

国会中継は面白くない。興味がない訳ではないが、議論と呼べるような議論もなく、政府与党の提案に対して、野党がひたすら揚げ足取りをし続けるという構図がごく一部のイデオロギッシュな人以外に面白いはずもない。官房長官会見に対する質疑も同様である。思想的にマルキシズムにシンパシーを感じる政治記者が、お決まりの揚げ足取りをするだけである。いちゃもんレベルの揚げ足取りに官房長官が多少イラついているのが苦笑を誘うくらいでさっぱり面白くない。面白くないというのが不謹慎だというならば、低レベルである。現在の状況では。政府与党の政策を別の観点からその政策を再検討し、ブラッシュアップし、場合によっては合理性と説得によって、廃案にする。それが国会と野党の役割であろう。現実にはただ揚げ足取りというプロセスがあるだけで、対案さえ出せないまま、採決されれば強行採決だと文句をいう。言い古されているが、それは時間と税金の無駄遣いである。

「悪夢のような」という形容詞と評価がほぼ確定した民主党政権の3年間の後、2012年から続く安倍内閣である。長くなればツッコミどころは満載になるに決まっている。景気は多少上向いたが、それも大企業中心の事であり、一般生活者には実感が乏しい。20年も少子高齢化対策と言い続けているが、少子化対策は全く効果は出ていない。セットである高齢化対策もひたすら社会保険料がアップするだけで、現役世代を圧迫しているだけである。人生100年時代も年金受給年齢を引き上げる為の怪しげなプロパガンダでしかあるまい。中間層の衰退と格差社会が叫ばれて久しいが、消費税やたばこ税など逆進性の高い増税が目立ち、企業の内部留保が過去最高に積みあがっているにも関わらず、相も変わらずトリクルダウン的な政策が実行されている。また安倍内閣の兄貴分にあたるであろう、小泉内閣の時代に拡大した新自由主義による規制緩和の直撃を受けた氷河期世代も放置のまま、単純労働の外国人を受け入れ、当事者たちからは「棄民」政策と呼ばれていたりもする。安倍内閣で最も評価できるのは外交だが、本質的にアメリカと日本が価値観を共有しているかは怪しいものであるし、韓国に対する対応も、それ自体は正しいと評価できるが、国内保守派のガス抜きにも見える。それでもなお、安倍政権だけが取り得る選択肢に見える。私自身も相変わらず消極的支持である。

日本のような大規模な先進国で、どんな政策にせよ成功することが簡単であるはずはない。佐伯啓思がいう通り「改革狂の時代」である。ひたすら改革と叫び続け、失敗し続ける政府与党。しかし、改革を叫ぶ保守と揚げ足取りしかできない野党という構図では、多少なりとも意味があり、成功する可能性のある改革も「異なる観点からのブラッシュアップ」というステップを踏むことが出来ず、成功はおぼつかないであろう。政府与党も反論に真摯に向き合い宅手も、揚げ足取りでは聞く耳を持つまい。そのうちに「野党の意見は戯言」であると認識されて、自動的に却下されるようになるだろう。否、既にそうなっている。

昨今、特に安保法制騒動以来、「民主主義の機能不全」とか「民主主義の危機」などとマスメディアが騒ぐが、議会制民主主義である我が国で、危機的に機能不全に陥っているのは民主主義ではなく、議会主義の方である。しかも、政権与党によって議会が蔑ろにされているというよりも、議論に耐える反論を野党が出来ないということが機能不全の原因にしか見えない。従って、問題の真因は野党にある。

零細政党を除いて、現在の日本における野党は所謂、旧民主党系の「リベラル」である。
東側世界にシンパシーを感じていたが、総本山たるソヴィエト連邦が崩壊してからは、これまでの主張や信念が否定されたことを受け入れられず、良く言って魂のないゾンビ、悪く言えば、日本の呪い手・社会の破壊者である人々である。その支持者たちを含め、やたらと騒々しいが、もはや議論に値しない。テレビや新聞などのマスメディアや社会学系を中心に大学の中枢に巣くっているが、ソヴィエトという総本山なき司祭や巫女の話など、普通の生活者には届くことはない。WEBがメディアとして発達した現在、一方的に「リベラル」の教義を喧伝し、都合の良いニュースのみを選別するということは不可能となった。ある世代から上に多い「情報弱者」だけが「リベラル」のご託宣を有難がるというのが現状である。米国製のポリティカルコレクトネスやマイノリティ擁護からくる逆差別、欧州製のダイバーシティ信奉など、「リベラル」が持ち込み、日本での定着化を目論む等の心配な動きはあるものの、旧態依然なリベラル系野党を論難する必要はもうない。端的に言って論じる価値もない。

そう考えていくと、真の問題点は「まともな野党の不在」であり、安倍内閣に保守の観点や公正の観点から異議を唱え、対案を出し、議論できる野党の不在である。

例えば「改革主義の保守」などは形容矛盾である。保守というスタンス、或いは構えは、人間理性の限界をわきまえるが故に、長く続いてきたことを無暗に変更しないというところにあるはずである。我々は全知全能ではない。同時に我々は理性だけで行動しているわけではない。情念や習慣というファクターが思いのほか大きいものである。これは18世紀の哲学者ヒュームの議論であるが、保守である以上、そのような人間理性への悲観を伴った懐疑が必要である。

一見消極的なこの考え方は積極的な意味を持つ。例えば、経営学の世界で、自社の強みが簡単には模倣されないことを「模倣困難性」と言う。その模倣困難性を構成する要素の中に「経路依存性」というものがある。これは過去の出来事の順序にその強みが依存している事を示しており、同業他社に簡単に真似されないということである。するとその企業の生き残る確率は当然ながら高くなる。だが、その強みを壊さないためには、社内改革も丁寧に実施する必要がある。なぜなら、何がどことどうつながっているかという因果の連鎖を正確に知ることは困難だからである。これを国家規模に置き換えてみる。例えば、我が国は先進国であり、上位の経済規模を誇る。それらは何らかの強みに起因している。それは労働者の知的レベルの高さ、勤勉さかもしれないし、社会的な同質性かもしれない。しかし、これらの経路依存性を完全に分析し、因果の鎖を全て分類・整理することは不可能である。だからこそ、保守は安易に「改革」を叫ばない。しかし、同時にその社会の柔軟性も回復力(今様で言えばレリジエンス)もある程度信用しているので、漸次的な改善や、必要な改革を拒むものではない。拒むのはガラガラポンの革命や改革と理性万能の全体主義である。

そのような保守の姿勢から考えれば、世界のグローバル化は潮流だとしても、それに徹底的に適応しようとする主義(イズム)であるグローバリズムを政策の根幹に据えるのはナンセンスである。地球という「単一の世界」ではなく、様々な国家や地域が緩やかに交流しつつ存立する「様々な世界」を指向するのが保守である。「様々な世界」を指向するならば、その一つであり、同時に故郷でもある自国の安全と繁栄を指向するのも当然である。自国とは国民のことであるから、その中での極端な不均衡を排し、平等ではないかもしれないが公平・公正を期すのが保守である。或いは「経済的指標」という指標、要するに「もうかりまっか?」のみの単一の指標しかない世界ではなく、これまでの歴史を踏まえた価値を大切し、本来的な意味での価値の多様性を指向するのが保守である。また効果のない改革を排し、時間が掛かっても、意味のある改善を指向するのが保守である。

こうしてみると政権与党である現在の自由民主党は「革新」であり、「リベラル」と位置付けることができるだろう。新自由主義やグローバリズムと保守は全く相容れない。敗戦と占領、戦後の成り行き、そして日本的不徹底によって保守のように見える「革新」である。対米追従は保守ではない。なぜなら、米国は人工国家であり、本質的にはピューリタン的独善に基づく設計主義である。教義が共産主義ではなく、ピューリタニズムというだけであり、その観点ではソヴィエトと大差はない。その独善の極みが「クリントン政権」であり「オバマ政権」であった。(現在はトランプ政権になり、少し揺り戻しているようだが。)リベラル国家に追従する政権が保守なはずはない。現実解としてそれしか道がなかったというのは一定程度に理解できるが、敗戦から70年以上経った今でも対米追従が政策の中心であるような政党が保守であるはずはあるまい。情けないと言っているのではない。アメリカは「リベラル」であるし、それに追従するならば、親米現実主義リベラル政党とは名乗れても、保守政党と名乗る資格はないと言っているだけである。それが欺瞞であることは国民の側も気が付いているが、大多数のまともな国民は親米現実主義以外の選択肢は取らなかった。対抗馬が空想主義的社会主義では信認のしようがない。自民党に灸を据える的な「空気」で社会党(自民連立)や民主党の政権が出来た時も、前者は自らの主張が非現実的であったことを認めたことにより消滅し、後者はそもそも政権担当能力がないことを露呈しただけであった。その結果は「親米現実主義以外はない」という国民の考えを補強しただけであった。

議会主義が機能不全に陥っている我が国に必要なのは与党と議論が可能な、保守の野党であろう。右翼ではない。これまでの歴史・伝統・文化を踏まえ、武田信玄ではないが「人は石垣、人は城」と考えて、国民の幸福の為の施策を丁寧に考え、政権与党の施策に代案を示しつつ議論するそんな政党である。本来的な公共の福祉を保守の立場で尊重すると言換えてもよい。ここでは仮に公共保守党とでも呼んでおこう。日本維新の会があるではないか。という向きもあろうが、人間理性への懐疑がなく、設計主義・改革主義・グローバリズムという点から見れば、やや過激な自民党でしかないため、保守とは呼べない。故に現在はまだ存在しない政党である。

私の考える公共保守党の基本的な立脚点を述べてみよう。4つある。

  • 理性や知性を狂信せず、歴史を重視する
  • 理想は蔑ろにしないが、理想主義は排する
  • 自国(自身)を重視するが故に、他国(他者)を尊重する
  • 公正(フェアネス)を重んじる

「理性や知性を狂信せず、歴史を重視する」というのが最も重要な考え方である。前述のように「国や社会を人為的に設計する」ことが可能であり、しかもそれが良いことと考えるリベラルとは真逆の姿勢である。ある人間が国や社会を人為的に設計した結果は、それがどれほど善意に基づいていても上手くいくことはない。その最も分かりやすい例はソヴィエト連邦であり、ドイツ第三帝国であり、文革中のシナである。人間が天国を作ろうとすると必ず地獄を作ってしまうものである。人間の力を過信しない。常に歴史を参照しつつ、修正を加えていく。この姿勢に違和感があるならばその人は保守ではない。

「理想は蔑ろにしないが、理想主義は排する」ことは、大人であることを要求するものである。理想はコンパスに過ぎないことを理解しており、到達しうる「場所」ではない。個人の理想は実現することもあるが、国家や社会の理想はあくまで指針であり、実現するようなものでないことを理解している必要がある。言葉狩りから始まる全体主義(ファシズム)は理想主義から出てくるものである。

「自国(自身)を重視するが故に、他国(他者)を尊重する」というのは、個々別々であることが考え方の前提にあるが故である。自国には自国の方向性があり、守るべき価値があり、それは他国に優先すると考えるため、相手もそのように考えることを当然とする態度の事である。相互性を重視するが故に、多様性を結果として尊重することになる。多様性それ自体を目的していないことがポイントである。だからこそ、二言目には「ダイバーシティ」と言いながら、異論を許さないリベラルと、これもまた真逆である。

「公正(フェアネス)を重んじる」ことは、ともすれば現実主義から虚無主義に落ち込み易いことを自覚し、自分自身をその暗黒面に落とさないための歯止めとなる価値感である。目的と手段の倒錯を回避するには、一つの「公正という価値」を価値として尊重しなくてはならない。保守の立場は現実主義でもある。目の前の現実に対応するために、プラグマティックにマキアヴェリアンとして立ち振る舞うこともあるであろう。だがその際に見失ってはいけない価値があるべきである。さもなくば、手段が目的化してしまう。「ライオンの力と狐の狡知を行使する」時、何のためにという目的が必要である。その目的が「公正」であるかどうか、或いは「公正さを増すこと」に役立つかという価値判断が、暗黒面への堕落をかろうじてつなぎとめることができる。また公正は公平につながる概念である。公平さは極端さを排する。従って、富の極端な偏在は是正されるべきとも考えるのである。

このような立脚点から、国家の役割である「安全保障」「経済」を政策化し、公共の福祉を向上することを考える。それが公共保守党、即ち、自民党に対する野党であるべきであろう。そして政権政党としての実力を蓄積していくのである。権力を志向しない政党など不健全である。確かな野党に甘んじるのは日本共産党に任せておいて、政権を担うにたる政党になることを目指すのである。自由民主党を「親米現実主義」「リベラル」と位置付けて、その反意語としての保守政党があるべきである。

少なくともオールドメディアの外にはこうした動きの萌芽は見られる。グローバリズムとリベラリズムへの批判、新自由主義への継承とケインズ主義の見直し、それでいて、議会制民主主義の尊重、憲法の見直し、現実的平和主義のような基本的価値は既存の与党と共有できるような動きである。それらが一つの潮流となることを願い、蟷螂之斧に過ぎないが、私なりにその役に立ちたいと考えるのである。

2018年10月6日土曜日

ジョーダン・ピーターソンについて、或いは大人の条件について


◆一人でもやっていけるとは?
もうすぐ5歳の一女の父として「教育」は気になる。「娘がどのような人になってほしいか」について妻と話をした際、「一人でもやっていける人/生きる力がある人」という言葉が出てきた。これについてさほど異存はない。ただ少し曖昧なので少しお喋りを続けた。妻の話をまとめると「自立している人」ということであると私は理解した。すると「自立している」という状態はどういうことかというのが次の問いになる。
先日Facebookのある記事へのコメントに私はこのように書いた。

自立している状態というのは「一人では生きていけない」ことを理解していることであり、その上で「できるだけのことをしてみる」ことであり、「生物として次世代をつなぐ(子をなすだけではない)」ことであり、「世の中を恨まず前を向いて生きること」であり、「可能な限り機嫌よくし続けること」であり、状況によっては「己を顧みないこと」ができるという事だろう。MECEかは知らないが。

短文のFacebookの投稿なので非常に雑ではあるのだが、私が考える「自立している状態」即ち、「大人の条件」は上記の通りで嘘はない。ここはブログなので、もう少し丁寧に、わが娘にクリアしてほしい(私自身もそれを満たしたい)「大人の条件」を書いてみる。

◆大人の条件
  1. 自分は有限であり、死すべきものであり、全知全能ではない。子供や若者の内はなかなか自分が「死すべきもの」であることを自覚することは難しい。また「なんでもできる/できるようになる」と考えるのは子供の子供らしい特権である。限界を弁えつつ、他者と「協力」なり「共生」なり「共依存」なりしていかないと、一人では何もできない上に、生きていけないことを理解しているのが大人である。
  2. 「死すべきもの」と「有限性」を理解した時に「だったら何をやっても無駄」と「拗ねる」のは子供である。「有限」で「寿命」はあるが、その限界がどこで、いつ死ぬかなど分からないのだから、拗ねずに「できるだけのことをする」のが大人である。
  3. 所謂「高尚な」ことばかり追求したり、やたらと神の視座に立ちたがるのは子供である。中二病という言葉が的確にとらえているが、まず我々は「生物」である。生物はドーキンスの言う通り、ある意味で「遺伝子の乗り物」に過ぎない。従って、遺伝子をつなぐことが必要である。直接には子を成し、子を育てることである。しかし、様々な事情により子を成せない人もいる。といって絶望せず、何らかの貢献をすればよい。次の時代につながるような貢献ができれば偉大だし、そうでなくとも、「誰かの役に立つ」ことで、次世代の貢献になるだろう。ほんの僅かでも「よりよき世界」につながれば立派な貢献である。その自覚があるのが大人である。
  4. 「社会が悪い」というのはふた昔くらい前には「学生の特権」だったが、その学生が老いて、今でもそんなことを言っているらしい。当たり前だが、社会や世の中を恨んで生きても何一つよいことはない。人生には良い状態も悪い状態もあるのだし、勝負は勝ったり負けたりするものである。だから、前を向いて、背筋を伸ばして生きるほうがよい。「カラ元気も元気の内」を理解しているのが大人である。
  5. 機嫌の良し悪しがあるのは人間の本性なので当たりまえである。しかし、機嫌が悪くて良いことは何もない。「機嫌の悪さ」が伝わることで、他者からは情報も敬意も愛情も伝えてもらえなくなるだろう。そして機嫌の悪さは自家中毒を起こしやすい。何一つ状況は変わっていないのに、どんどん絶望的な気分になってくる。それを理解し、できるだけ「機嫌よくいる努力をする」ことが大人である。
  6. 状況によっては己の立場や身体を気にせず立ち向かうことができるのが大人である。あまりに理不尽な時、物理的に襲われた時、或いは自分自身よりも大切なものを守る時、言葉であれ暴力であれ、必要に応じて使い立ち向かうことができるのが大人である。

おおよそ、こんなところである。これらを満たすか、満たそうとしている人を私は大人と見做す。

◆ジョーダン・B・ピーターソン教授
最近、ふとしたことからトロント大学の教授を務めるジョーダン・ピーターソン氏を知った。ポリティカル・コレクトネスを批判し、英国は「チャンネル4」で、フェミニズムを振り回す左派のインタビュアを、放送中にやり込めてしまって有名になったらしい。そのピーターソン氏が今年の初めに上梓した「12 Rules for Life: An Antidote to Chaos」という北米や英国でベストセラーとなった本がある。訳すと「人生のための12のルール ~混沌への解毒剤~」だろうか。

平たく言えば処世術本なのだろうが、この12のルールが面白い。勿論私の勘違いも大いにあるだろうが、私が言いたいことを整理してくれている。或いは「我が意を得たり」という思いになったので、自分用のメモを兼ねて紹介したい。
ネット上の拾い物を翻訳したものである。

~12のルール~
  1. 肩を丸めず、背筋を伸ばして立て
  2. 自分のことを助けるべき他者と見做して扱え
  3. 最善を尽くしてくれる友人とだけ付き合え
  4. 他の誰かではなく、昨日の自分自身と比較して成長を確かめろ
  5. 子供が嫌いになるような振る舞いを子供にさせるな
  6. 世界やシステムにケチをつける前に己の行動を律せよ
  7. その場だけの利益ではなく、意義のある理想を追え
  8. 真実を話せ、少なくとも嘘をつくな
  9. 今話している相手は、自分が知らないことを知っているかもしれないという前提で接しろ
  10. 発言には正確を期せ
  11. スケボーしてる子供の邪魔をするな
  12. 道で猫にあったら可愛がれ

近ごろは、「自由・平等・人権を守るためにそれらへの異論は許さない」という全体主義がはびこり始めているようだ。だが、北米や英国など、ポリティカル・コレクトネスの本場のような場所で、見方によっては右翼とレッテル貼りされそうな教授が人気があるということが、一つの救いかもしれない。仕方ないから英語で原著を読もう。翻訳があれば愛読者になれそうな気がする。受ける印象は佐伯啓思か。

◆斬新な切り口?
原著はまだ購入してもいないので、ウェブサイトで記事を拾い読みすると「斬新な切り口」という評価が目立つ。しかし、インタビューなどを読むと「宗教抜きの倫理・道徳はない」「機嫌よくいるのは自分や他者への配慮と責任」など、ある意味で非常に常識的である。これらを「斬新」と見てしまう人々が多いことに驚く。人間の数と同じだけ人間の世界がある。しかし、ズレていつつもそれぞれの世界はかなりの程度重なっていると考えていたが、どうやら間違いらしい。ある種の人々は相当違う世界を生きているようだ。これは「分断」なのだろうか?どうもリベラルが騒ぐ「分断」とは違うと思えてならない。

◆いつか娘に伝わるかな?
ジョーダン・ピーターソンは北米で「若い男性」に人気があるようだ。少なくともフェミニストのような女性に甘い物言いではない。前述のチャンネル4では「男女の賃金格差」について徹底的に論難している。また「人生とは理不尽な混沌(カオス)である」「幸福を求めることは無意味である」というようなニーチェ読みらしい厳しい人生観を持っているようだ。また、こうも言っている「年老いた未熟者ほど醜いものはない」と。全面的に賛成である。
女の子であるとは言え、いつの日か娘にはこうした考えについて私と議論できるようになってほしいとは思う。相当難易度が高いし、学校教育で刷り込まれる現代の「倫理」(≒ポリティカル・コレクトネス)や、マスメディアとそこに安易に登場する評論家の甘ったれた「生きる力」とか「正しさ」とか「学級民主主義」とはかけ離れた内容であるのは百も承知である。
とは言え、子供は「親の行ってほしくない方向に行くもの」なので、親心としては、まあ元気でいてくれればそれでよいし、娘がこれらの条件を理解して真の大人になった頃、私が生きているかは相当に怪しいのだが。

2018年4月23日月曜日

政治思想の見取り図


消極的支持或いは消去法
安倍政権がピンチだそうだ。とはいうものの自民党内部や財務官僚の「安倍降ろし」以外には特に脅威があるわけでもない。ある程度の現実主義にたって政権運営が可能なのは現時点で自由民主党以外にないし、グローバリゼーションに対応することでエスタブリッシュメントの支持を、憲法改正や中韓等への対応から保守層の支持を集める安倍内閣はサヨク&サヨクマスメディアが騒ぐほどにピンチだとは思わない。安倍政権については「消極的支持」である。

政治は本質的に利害調整である。政党政治に基づく議会制民主主義においては最大公約数的な政策が主張される。利害調整であるから、政権政党やそれに近い大政党は国民のマジョリティの最大公約数的な意見や願望が反映された政策となる。最大公約数なのだから、自分の考えと非常に近い政党というものはよほどの幸運か、何も考えていない場合以外には存在しない。従って消去法での消極的支持が常態であるし、特に成熟した日本という社会においては、熱狂無き冷静な状態が望ましい。(マスメディアによる愚民化については別の機会に。)

保守vs革新?
安倍政権は「保守」と呼ばれている。尤も一部の若者の間では「革新」と呼ばれることもあるようだ。それも無理もない。否、安倍政権、或いは自民党政権は「革新」であったかもしれない。保守であるはずの安倍政権は小泉政権ほどではないにせよ、改革を叫ぶし、グローバリゼーションに肯定的であるし、積極的な親米である。「改革を叫ぶ保守」等は語義矛盾ではないのか。翻って、民進党や共産党は憲法絶対護持である。共産党とそのシンパに至っては「人々の生活を守れ!」と絶叫している。これは「保守」ではないのか?

戦後日本の常識的な区分は「親米=右翼=保守」「親ソ=左翼=革新」であった。米国による軍事占領の結果「親米+自由主義+経済優先」の体制が構築されたため、それを維持するのが「保守」、共産主義・社会主義へのシンパが「革新」ということになった。ところが大日本帝国の牙を抜くために米国が制定した「日本国憲法」は革新の理想が記されていた。天皇の宗教的側面の否定と九条の話である。佐伯啓思の言葉を借りれば「軍部に騙されて侵略戦争した」という米国製の「フェイクニュース」と上手くマッチしてGHQによる巧妙な検閲の下、「現実主義=悪=保守」vs「理想主義=全=革新」という戦後日本の思想的な構図が定着していった。この「日本国憲法」は「戦争放棄」というある種の理想が記載されている。日本における「革新」は「理想主義=善」であるため、これを墨守するという立場をとらざるを得ない。さらにソ連の崩壊により、共産主義幻想も崩壊してしまった。その結果「理想主義者」の拠り所はどれほど古臭くなったとしても護憲以外になくなってしまったのである。

一方、ソ連の崩壊とともに「自由主義」の勝利が確信され、共産主義シンパはその意味を失った。しかし、ここを起点に「自由主義」が「新自由主義」として暴走を始める。冷戦末期、米国のロナルド・レーガン大統領や英国のマーガレット・サッチャー首相による新自由主義は保守の顔をしていた。それぞれ、共和党・保守党という「保守」側から出てきたものであった。日本では中曾根康弘が首相であり、米英、とりわけ米国との蜜月時代であった。本来の意味での「革新」の本質は「普遍的にどの社会であれ、計画的に社会を進歩させる(ことができると考える)」ことである。そうだとすると、ソ連が崩壊した結果、一番左にくるのは実は米国であった。米国こそは「進歩主義」であり、「計画主義/設計主義」であり「革新」そのものであった。そして米国は共和党・民主党にかかわらず「グローバリズム」を推し進め、新自由主義のドグマである市場の自動調整機能を信じて、弱肉強食化を推し進めた。そしてその薫陶を受けた、或いは庇護下にある我が国の自民党は「保守でありながら絶え間なく改革を訴える」という不思議な政党となった。小泉純一郎が首相であったころの「改革なくして成長なし」というフレーズは米国的「革新」そのものである。
これが「改革を訴える保守」と「生活保守と護憲を叫ぶ革新」という構図の大まかな見取り図である。




西欧文明の根本的なロジック
日本における一般的な「保守」の定義は前述のようなものである。乱暴に言えばネットスラングの「ネトウヨ」が意味しているものと大差ない。混乱を回避するために、さしあたりそれぞれ「ウヨ」「サヨ」と呼んでおこう。子供っぽいネーミングだが、どちらも少し足らないのでふさわしいだろう。さて、保守主義の父と呼ばれるエドマンド・バーグ的な意味での保守と「ウヨ」とはあまり関係がない。保守は「人間理性万能」に対する警戒から生まれた思想である。「人間理性万能」 主義は1789年に発生したフランス革命を嚆矢とする「人間が社会を設計し、理想社会や文明を構築する」というような考え方だ。それは西欧的な意味でのヒューマニズムであり、近代主義そのものと言ってもいい。その一つの帰結が計画経済である共産主義であり、もう一つの帰結が科学万能を前提とした市場原理主義である。前者は分かり易い。人間の理性が絶対ならば、英知を結集して限りなく無謬に近い計画を作ることができるであろう。それを優秀な管理者が実行管理していけば、間違いなく素晴らしい社会が到来するであろう。その社会を共産主義社会と呼ぶ。と、こういうわけである。この観点で言えば、ソ連はフランス革命政府の直系の子孫である。後者は少し込み入っている。人間の理性が絶対ならば、経済はそれぞれの人間に備わっている理性に任せることで、「神の見えざる手」が動き、結果、最終的に最高に効率化された社会が到来するであろう。それは平等ではないが公正な社会であり、これを資本主義(市場原理主義)社会と呼ぶ。ということだ。どちらにせよ、人間の理性、平たく言えば脳みそを楽観的に信用している。理性が作り出した、共産主義であれ、民主主義であれ、計画経済であれ、自由主義経済であれ、人間に普遍的に通じる思想、即ち理想が実在することを信じて、人工的に文化・経済またそれを統合した文明を創り出す、改善、改革できるという考え方である。この考え方が西欧の根本にある。プラトンのイデア論に一神教であるキリスト教が混淆した思想が根底にはありそうだ。

文化・文明に設計図はない
少し考えてみればわかることだが、文化・文明というのは人間が設計して生み出したものではない。社会的動物である人間が、その時その時に必要な行動、例えば、話し合い、喧嘩、戦争、研究、発明、創発などを積み上げていった結果、「できてしまった」ものである。聖徳太子がこのような国であれかしと決めたから、日本の社会がこうなったわけではない。日本列島に住んでいた様々な人間の行動の結果が蓄積され、「なりゆき」で日本文明が形成されたはずである。その時々に天才が出現し、大きな影響力を振るったが、その天才たちが社会や文明それ自体を「設計」したわけではない。織田信長がブラック企業を許容する文化を生み出したわけではない。要するに人間たちの思慮や行動の蓄積が文化・文明を構成しているのである。しかし、ただ蓄積していくだけで文化・文明が構築されていくわけではない。そこには「時間」という篩(ふるい)が必要である。その時に最善のものであっても時間がたつと陳腐化する。非合理になる。不便になる。そうしたものは淘汰されていく。その時間の重みに耐えたもので、完全には理解不能な正当性がある認識されたものが「伝統」と呼ばれる。文明は文化(同じ時代に広がるもの)を横糸に、伝統を縦糸に構成されるものである。そして、それを是とする態度、考え方が「保守」であり、「保守主義」ということである。

これは理性万能の普遍主義とは真逆の考え方である。保守主義は人間の理性を万能とは考えない。保守主義は普遍的価値や人類共通の理想を「虹のようなもの」として扱うのである。追うことはできるが、たどり着くことはないということである。

「ウヨ・サヨの奉じているもの」
普遍主義は理想主義と相性がよい。人類共通の価値であるのだから、この価値が全世界で受け入れられるべきだと考える。理想主義も、このような素晴らしい理想なのだから、何よりも最優先されるべきだという考え方であり、現実と向き合いを粘り強く改善するというようなことが苦手だ。なぜなら素晴らしい理想(普遍的な価値)があるのだからそこに一足飛びに改革すべきだと考えるからである。これが日本の「サヨ」の発想である。門田隆将がそうした人々を「ドリーマー」と呼んだが、なかなか適切なたとえだった。これが衰退したのは喜ばしいことだ。理想主義と普遍主義が結びついて、政権を握るとろくなことにならない。ある価値が絶対に正しいならば、それ以外の価値は無価値であり、悪である。従って弾圧すべきとなって、容易に全体主義に行き着くのである。ジャコバン独裁もナチズムもスターリニズムも理想主義的普遍主義が生んだ地獄であった。一足飛びの改革のことを普通は「革命」と呼ぶ。

では「ウヨ」ならよいのか。米国は明らかに普遍主義の国である。民主主義(アメリカンデモクラシー)と資本主義経済は人類普遍の価値であり、あらゆる社会は様々な曲折を経ながらも最終的に民主主義+資本主義になるはず、なるべきという立場である。これは結局一つの理想世界を目指しているのであり、ある種の全体主義と言ってもよい。共産主義という極左が消滅した今、普遍主義、進歩主義の観点から見れば、米国は現時点で極左である。ダイバーシティなどと言っているが、PC(ポリティカル・コレクトネス)の本質は全体主義の言論統制と何一つ変わらない。そして中曾根内閣以降の自民党は対米従属の傾斜を強めている。ロンーヤスにせよブッシュー小泉にせよ、安倍首相の「価値観外交」にせよ、米国の唱える「普遍的」価値を奉じることを言っているのである。こう考えると「普遍主義・進歩主義」という点で「ドリーマーサヨと親米ウヨ」は同根である。

縦糸を改めて見つめなおす
「革命」が起きるとそれ以前の歴史との断絶が起きる。例えばルイ16世が断頭台に上って以降、寡頭政体のレジームであったフランスは崩壊し、共和主義のフランスとなった。そこでは過去は否定さるべきものとして扱われ、粛清の嵐が吹き荒れた。日本における「断絶」は言うまでもなく1945年から1952年。敗戦~占領の7年間である。これ以前と以後で歴史が断絶した。いや断絶したことにした。日本が受諾したポツダム宣言にある通り「一部の軍国主義者が日本国民を欺いて世界征服を企んだが、米国をはじめとする正義の民主主義国家に打ち破られ」(宣言には本当にそう書いてある)て、回心(コンバージョン)したというストーリーで主権を回復した。半主権国家かどうかは置いて、国際社会に復帰するにはそれしかなかった。「世界征服を企んだ(ショッカーか)」とされる戦前世界を「悪」と規定したために、そこで縦糸を断ち切ったわけである。

だが、ドイツ第三帝国とは異なり、自覚的に「世界征服」だの「民族浄化」だのを大日本帝国は企んだわけではない。ナイーブで稚拙で大失敗であったが、西欧文明による世界秩序に挑戦しただけであった。それも自覚的ではなく、なし崩しに大戦争に突入してしまったのだ。そうでなければ誰が、チャイナと英国の片手間に勝算のない対米戦争などするものか。「我々は降りかかる火の粉を払いのけようとしただけだ」と。私も祖父や祖父の友人に直接そのように言われた記憶がある。だが、これは公的にはタブーとなった。なぜなら大日本帝国はショッカーだったと日本政府が言ったわけである。ここで建前と本音が激しく分裂した。顕教と密教と言い換えてもいい。この密教は非公式の場でのみ伝えられてきた。

結局、縦糸は断ち切られてはいなかったのである。伏流水のように非公式の場に潜っただけであった。この密教化した縦糸を通じてしか、我々は祖父母・曾祖父母の考えていたこと、感じていたことを感じることができない。保守主義の立場で重要なのは、この構図を理解して、あくまで漸進的に密教から顕教の一部へと、言い換えればタブーを新しい共通認識へとつないでいくことが重要なはずである。なぜなら、伝統とは普遍主義とは逆に、その国、その土地、その民族固有の歴史、立場、文化、文明を尊重し、あくまで漸進的に継続改善する立場であるからだ。欺瞞的とは言え、戦後民主主義の存在さえも全否定はせず、少しずつ、以前より少しマシな共通認識を作る。少なくとも大日本帝国がショッカーだったというようなフェイクニュースから戦後日本が出発したことぐらいは常識として共通認識としておきたい。

このような抽象的な思考をしなくとも、普通に考えて我々の祖父・曾祖父の世代が世界征服を企んであの大戦争をしたということが、おかしいと思うくらいはできるはずである。そんなわけはなかろう。私や読者の祖父・曾祖父たちがそれほど愚かであったはずもない。それにしてもお粗末な顕教を信じ込んだものだ。それを建前としなければ例え半分であっても「主権国家」として復帰できなかったという事情はあったにせよである。






2017年8月1日火曜日

「民主主義」というマジックワードの超克

戦前における「国体護持」と同様に、戦後は「民主主義」がマジックワードとして流通している。今風に言えばバズワードと言ってもいい。政治的に誰かを非難する時には右も左も「民主主義の破壊だ!」「民主主義を根底から覆す…」云々。しかし、これらの言葉は没論理である。正直に言えば「吠え声」と変わらない。なぜなら「民主主義」という言葉の定義が全く共有されていないので、「民主主義に照らして、XXXXだ!」と主張しても、論理(ロジック)が意味をなさない。


見たところ、職業的な政治家はプロフェッショナルらしく、このことをちゃんと自覚している。選挙制度に基づく政治の本質は、被統治者である国民の政策への関心が下がるほど、カタルシスを目的としたステージショウ、はっきり言えば「見世物」であり、見世物である以上、論理よりも印象を操作するほうが、ずっと効率的に選挙権をもつ国民に訴えるだろう。少なくとも小泉旋風、劇場型政治といわれてからこっちは、職業的な政治家はそれを自覚的に行っているだろう。そう思えば、この「戦後民主主義」体制下の政治家も「まともな国家運営をしながら人気取りもする」という点でなかなか大変である。ついつい同情してしまうこともある。

民主主義とは何か?という問いそれ自体は非常に重要ではある。しかしその重要性はあるべき政治体制の模索のためという本来的なものとして、多くの人に意識されているわけではない。そうではなくて、単なる前提なしの「正義」の源泉として、平たく言えば正当化のための錦の御旗として利用されるために問われることがほとんどである。やや空しいが仕方がない。日本を含む先進国においては、「隣人愛(博愛)」は知らないが、「自由と平等」はかなりの程度達成してしまっており、また、「権力vs市民社会」というような構図は意味を失っているため、「民主主義」を問うことの意味はその中に住む国民にとってほぼ無意味である。

大雑把に構図化してみると、元々キリスト教的な進歩史観、終末思想、つまり「唯一の神が何らかの目的をもってこの世を作り、いずれその目的は達成され、歴史は終わる」という観念を持たない我々日本人は、様々な大陸の思想に影響を受けながらも、ある種独自の価値観のなかで江戸時代まで生きてきた。それは「大目標を持たない」という点で恐るべき停滞の時代だったかもしれないが、ともかくも西洋的(=キリスト教的)なものとは異質のものとして繁栄してきた。しかし、幕末に西洋文明と対峙することにより、己の無力さを自覚するとともに、西洋的価値観を「正しいもの」として取り込んでしまった。平たく言えば、西洋にシビれてしまった。さらに新興の西洋化国家の帰結として大東亜・太平洋戦争に突入し、壊滅的な敗戦を経験した。それ以降、日本の諸悪の根源は「民主化=西洋化が不足していること」と認識されるようになった。丸山真男的な「(欧米は進んでいるのに)日本は遅れている」という考え方である。

だが、「民主化=欧米化」が無条件に礼賛されるべきという発想はソヴィエト連邦の崩壊以降、加速度的に意味を失っている。そのことは別段インテリ層でなくとも「素朴な庶民」でさえ理解している。表現がうまくできないだけである。なぜならば「自由・平等・博愛」の極点、つまり行き着く先のひとつが共産主義であることは誰にでも理解できるからである。資本主義vs共産主義というのは、決して民主主義vs全体主義ではなく、(自由を強調した)民主主義vs(平等を強調した)民主主義ということだったのだ。

このあたりから「資本主義の勝利」というような「祭りの季節」が過ぎると、もはや民主主義それ自体の意味を問うことがなくなっていく。そしてそのことは不安を生み出す。それはこういうことである。「平等を指向すると社会主義・共産主義に行き着くが、それは歴史によって否定された。しかし、残った自由を志向する資本主義的自由主義は多くの格差を生み出し、我々も貧乏のままである。それでよいのだろうか?」と。

少なくとももはや「民主化(=西欧化)が不足している」という議論はゾンビである。ただ、マスメディアを中心とした無意味かつ有害な「お作法」でしかない。大切なことは「民主化が足りない!」とか「民主主義の危機だ!」という戯言に接したときに「具体的にどういうこと?」と問うことである。非常に地味ではあるが、これをすることでマジックワードは崩壊する。AIだIoTだと言われたときに、具体的に何ができるようになるの?と聞き返せばたいていの営業やコンサルは「あわわわわ」となるのと同じことである。その結果、正しいことや向かうべき未来がますます見えなくなるだろう。そしてますます不安になるだろう。するとおそらく気が付くだろう。我々は「退屈」しているだけなのだと。


その「退屈」の名はニヒリズムという。すべてはその自覚から始めるしかないと私は考える。

2017年6月13日火曜日

語り部たちへの反論(シリーズ:何を反省するのか?)

池田信夫氏主催のサイトであるアゴラで「戦争体験者の私が、いまの政治家に申し上げたいこと --- 釜堀 董子」という一文を読んだ。私の父の年代である戦中派(1937年生)の著者が自らの実体験をベースに現政権や「右傾化」する比較的若い世代を批判する内容である。戦中派の語り部が行う議論のある種の典型であったので、チェックしておきたいと思う。というのは、その実体験に対してどうしても「遠慮」が発生してしまい、それ自体が異論を許さないという議論の拒否や思考停止を生むと考えるからだ。正直なところ私もこの「遠慮」から自由でないし、若干己の中の抵抗を感じながら書いている。しかし、議論の拒否は不毛なのであえて反論したい。もちろん釜堀氏は面識もないし、その御年でウェブメディアに寄稿されていることには敬意を表する。個人的な悪意があるものではないことをお断りしておく。


『1937年生まれの私は、12月に80歳を迎える。実体験は少ないが、まわりから教わった戦争体験を、しっかりと伝えることが必要ではないかと感じている。』

このような書出しから始まる。読者はここで「戦争体験者」と思う。そして「戦争反対」「九条守れ」という議論が展開されることを容易に予想してしまう。そして案の定、記憶が定かでないとエクスキューズを入れつつ、出征兵士が「万歳」の声に見送られながら目に涙をためていて「本当はみんな行きたくない」と当たり前のことを説明する。冷血漢の汚名を恐れずに指摘しよう。この著者が想定している読者は戦後生まれ、団塊の世代以降であろう。ウェブメディアへの寄稿がその証左であるし、戦中生まれと戦後直後生まれの世代がもつ共通認識(とこの著者が信じているもの)を持たない世代を想定している文章であるからだ。逆に言うと、「戦争を知っている」ということを根拠とした権威主義に基づいているとも言える。

さて、出征兵士が「本当はみんな行きたくない」のを60年代以降生まれ(取り合えずややこしいのでそう定義しておく)のわれわれが想像できないとでも思っているのだろうか。ちょっと調べれば「徴兵逃れ」などはある種の常識であったことは分かるし、どこの世界にリンチで有名な帝国陸海軍に徴兵されて、しかも死地に赴かざるを得ない事を歓迎する人がいるだろうか。出征兵士は行きたくないが義務として、男性に生まれたある種の宿命と思い定めて出征した人がほとんどだっただろう。もし、兵士は嬉々として戦地に赴いたと信じている人がいたら、左右を問わず正常な精神を持っているとは思えない。また我々の世代が「万歳」の中出征したのだからうれしかったはずと勘違いしていると思われているのであれば、「馬鹿にするのもほどほどに」していただきたい。「万歳」は建前に過ぎぬ。当たり前である。



1937年生まれということは1940年、1942年生まれの私の両親とほぼ同年代である。この世代の戦争経験とは「疎開」「外地からの引揚」「空襲」「機銃掃射」「原爆」「敗戦」「傷痍軍人」「占領」である。直接地獄の戦地に赴いたわけでもない。赴いたのはその親の世代である。そして幸運にも生きて内地に帰ってきた人々に戦争の話を聞いたはずである。著者は1945年には8歳、最終位置がどこかによるが、出征していた父がいれば再会したのはおそらく1945年から1947年であろう。するとそのとき彼女は8歳~11歳の少女だったはずである。そのかわいい盛りであり、感受性の強くなる思春期直前の娘に対して出征した父や元兵士の大人たちは難しいことや残酷なことを語っただろうか。語るわけがない。戦争のこと質問したって、黙したか、「戦争は悲惨だよ」以上の説明しかしなかったであろう。当たり前である。敗戦によって否定された自分たちの信念や大儀、そこに至るまでの政治的な経緯のような難しい話は子供には理解できない。ましてや占領され米国による国家改造が進む中で、余計な情報を、生きにくくなるような情報を子供に教えるわけがない。


『時は流れて、日本は終戦72年を迎えた。日本人でありながら世代間による戦争の考え方は大きく変わってきている。私の世代は「二度と戦争はすべきでない」と答えるだろう。しかし、若い世代は「日本は強くなるべきだ」「平和を守る一員になるべきだ」と答える。』

と嘆いてみせる。ほほう。「二度と戦争をすべきでない」と答えるのは1935年~1950年代に生まれた世代だけだろう。あるいはそれ以前に生まれていても銃後にいて安全と思い込んでいたのに、爆撃により殺されかけたり、家族が死んだりしたケースでかつ、あまり何も考えていない人だけである。少し言い過ぎかもしれぬ。「二度と」とは'NEVER'の意である。だから、この議論は「他国が攻めてこようが、無抵抗でされるがままにされるべきだ」という結論に当然に行き着く。そして、その結果としての隷属や陵辱、そして家族の死を甘んじて受けよということになる。はっきり申し上げて「何を言っているのだ」である。「戦争をすべきでない」。同意である。全力で戦争に突入することは回避すべきである。だが、他国が、具体的には中華人民共和国や北朝鮮が侵略してくれば、反撃する必要があるに決まっている。また、日本を守るためならば「他国の兵士(若者)」が血を流しても、自国は血を流さないということには言及しない。当たり前の反論に耐えられる程度の正当性すら持っていない。ただひたすら戦争は「悪」だと言い募っているだけである。はっきり言えば思考停止であり、議論の拒否である。


『私の子ども時代や若い頃は、戦争といえばそれだけで世論が沸騰した。戦場へ行った人たちが大勢いたからである。戦地にやらされ、九死に一生を得た彼らの感情は激しかった。一方日本国内は、空襲や原爆で廃墟になっていた。戦争の悪は日本人すべてが認識したといっても過言ではない。戦争につながるものは激しい批判にさらされた。

だから憲法9条も非武装中立も、さほどの違和感なく受け入れられたのである。民主主義も男女平等も新憲法も、天皇が神から人間になったのも、すべてが180度の転換だったが、すんなりと行われたのである。』

あえて言い切ろう。認識が間違っている。戦場で生き残った兵士が激しく反応したのは道義的な理由ではない。日本が近代戦を遂行する能力がない事を肌感覚で知ったからである。少なくとも「精神力が戦車を圧倒する」というような思考はまったく無力であることを知っており、ただ精神力を強調するだけの上層部が無能であることを、そして補給なき軍隊がどのような地獄を見るのかを彼らは知っていた。だから反対したのである。しかし戦中派や団塊世代はそうではない。道義的な理由から、あるいは「一部の軍国主義者」に責任を転嫁し、イノセントな自分でありたいがために批判したのだ。反対の理由が違うのである。おそらく忘れておいでだろうが、一緒になって「戦争反対」と叫んでいると、元兵士に「戦争に行っていないやつらに何が分かるか!」と怒られたり、殴られたりということが頻繁にあったであろう。理由は述べたとおりである。片方は「地獄を見た我々の記憶において日本国に近代戦を遂行する力はない。それがゆえに反対!俺たちがいた地獄に子供たちを送るな!」と言っているのである。しかし一方は「戦争は絶対悪だ、その戦争を遂行した戦前は悪だ!(そしてそれに反対している俺たち/私たちは善だ)」と言っているのだ。そして括弧内の思いを前者が認識すると怒られたわけだ。「俺たちをダシにしやがって」と。

今はもう、祖父母の世代はほぼいない。もはやそのように怒られることもなくなり、特権的に語れるようになった。

この後は内田樹を持ち出し、的外れな管理教育論を展開する。ここは、年寄りの耄碌として大目に見よう。
そして民主主義万歳論。敗戦によってもたらされた民主主義が日本はまだ自家薬籠中のものにしてないから右傾化し絶対平和主義が脅かされているというおなじみの展開がなされ、そして安倍政権が強いのは民主化が足りず、マスコミが忖度しているからだという雑な結論になる。しかしながら、民主主義と絶対平和主義は何の関係もない。民主主義はどちらかといえば戦争を生み出す。ファシズムの母体がワイマール憲法下の民主主義であったし、リベラルの皆さんが大嫌いな米国のトランプ大統領も民主主義で選ばれたわけである。もっとも中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国を民主主義と呼ぶなら、言葉の定義が違うので、これは議論にならない。民主主義というのは平和主義とは無関係である。民主主義は古代ギリシャの民主制を原型としており、これは「兵士として命をかける」ので「国政に参加する権利がある」というものである。従って、原理原則で言えば「民主主義=国民皆兵」である。民主主義が大好きな不勉強な向きには意外かもしれないが、そういうものである。もちろん原理原則の話で現在の高度な専門性を求められる軍隊や自衛隊では「国民皆兵」というわけにはいかない。

安倍政権が無駄に強いのではない。民主主義の原則が機能しているために、説得力のある対案が出せる、魅力的なコンセプトが出せる、あるいは人柄を含めてカリスマであるような有能な野党が存在しないだけである。絶対平和主義は単なる空想である。それこそ戦争を知る世代を名乗るならばそれを知っているはずであろう。それが分かっていながらこのような主張をするなら、たんなる欺瞞・偽善であり、分かっていないなら単なる馬鹿である。


以上、非常に心苦しい内容だが、こうした反論をだれかがする必要があるだろうと筆をとった次第。

2017年5月1日月曜日

生命の法則

'In Italy for 30 years under the Borgias they had warfare, terror, murder, and bloodshed, but they produced Michelangelo, Leonardo da Vinci, and the Renaissance. In Switzerland they had brotherly love - they had 500 years of democracy and peace, and what did that produce? The cuckoo clock.  'The Third Man'

「ボルジア家支配のイタリアでの30年間は戦争、テロ、殺人、流血に満ちていたが、結局はミケランジェロ、ダヴィンチ、ルネサンスを生んだ。スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」(第三の男)

男性の原型はなんだろうか。勿論、女性である。女性を原型にして突然変異のなかで男性が造られたのである。その証拠に乳首もあれば(無用である)、睾丸には溶接したようなラインがある。ペニスだってクリトリスの発達型に過ぎない。私の妄想ではない。生物学的にそうなのだ。ある種の魚(タイの類など)では、すべて雌として生まれるが、環境が悪くなると、そのうち最大・最強の雌が「性転換」するそうである(無論逆パターンの例外はある)。要するに環境への変化への対応として、雄、すなわち男性が出てくるに過ぎない。その意味で、少なくとも人類の男性は生物学的には「手段」に過ぎない。



男性の原型が女性だとして、人間の男性のそもそもの社会的役割(生物学的には自明だ)はなんだろうか。男性は平均的に女性よりも三割程度筋肉量があるそうだ。そんな医学的な知見を持ち出さなくとも、一般に女性より腕力とスピードに優れ、背が高く、空間認識力に優れる(それ以外はたいてい女性の方が能力的に上)。判りきっていることだが、これは「狩人」「戦士」に向く身体的特長である。要するにそもそもは「女性と子供」を養い、守るというのがその社会的な役割の原型である。少なくとも100万年の人類史の9割ぐらいをこの役割でまかなってきたはずであり、我々自身はその環境へ適用した生物学的特徴を未だに残している。

最近知ったのだがマーチン・ファン・クレフェルトというオランダ生まれのイスラエルの学者がいる。歴史学や地政学、戦略論の泰斗なのだが、彼の言葉に「生命の法則」というものがあるそうだ。それはシンプルな法則である。「男は戦い、女は戦士を愛する。それが守られない国家は衰退する。」というものである。この場合の衰退とは「少子化」のことである。この戦士の法則をないがしろにする国は端的に少子化が進むそうだ。クレフェルトによれば生命の法則を忌避する国の文化には特徴がある。それは「戦争の忌避」「性的マイノリティの擁護」「フェミニズムの台頭」「銃規制」「移民の受け入れ」だそうである。これだけ読めば暴論のように読めるし、「リベラル」への攻撃としか見えないかもしれない。

しかしどうやらこれは高い蓋然性で科学的に正しそうである。古代国家であれ現代国家であれ、その活力のソースは「生命としての基本」に立脚している。柔弱になった国家はアテネであれ、ローマであれ、であれ、徳川体制であれ衰退し滅んでいる。倫理善悪は一旦置けば「その地域や国家の文化として暴力を忌避し始めることは生命力の衰退のサイン」であることは間違いがないようだ。

これはなかなか厳しい指摘である。少なくともわが国における戦後世代の教育や倫理観を真っ向から否定するものだからだ。政治学の観点は大別すると3つある。「リアリズム」「リベラリズム」「コントラクティヴィズム」がそれである。我々は「リベラリズム」の観点に基づいた教育をこれまで受けてきている。「リベラルな価値観、自由市場、国際制度機関の拡大によって国家間の協力関係が増加する」というような価値観である。その奇妙な理想主義は勿論米国によってもたらされたものであるが、GHQによる情報統制とは別に、総力戦の敗戦後という価値観の混乱との相乗効果もあり、日本という国家の表向きのドグマとなった。

そして日本とは異なる経緯と事情により、西欧諸国や米国で時折盛り上がるムーブメントとしてのフェミニズムやマイノリティ開放、近くはヘイトスピーチの禁止などの影響を受けつつ、また戦前の贖罪意識、或いは勝ち馬に乗る事大主義を本音とした偽善の横行により、リベラル的な主張こそ正しいというような正当性を持つに至った。

さらに、冷戦の崩壊による「歴史の終わり?」的自由主義陣営の勝利による永久平和の達成という壮大な勘違いや、グローバリズムという地域や多様性をその基礎としながらも、結果的に一色に染めるという特殊な擬似全体主義の横行により、リベラリズムはその力を増して行った。しかし、その極点でBrexitやトランプ大統領が登場した。正確に言えば「リベラル・グローバリズム」は「仮面をかぶった帝国主義(Disguised Imperialism)」に他ならないというのが目下の私の結論である。それを主導してきた米・英が自家中毒に陥ってそれに耐えられなくなったというのが現在起きていることの意味ではなかろうか。

米ソ対立が終焉し、ちょっとした平和の宴の後、明らかになったのは「文明の衝突」というむき出しの帝国主義であり、しかもかつて文明国同士で取り決めた「戦のルール」など一切守らないテロリストや「超限戦」を標榜するクレイジーな大国の台頭である。要するにリベラリズムは失敗したのである。「コントラクティヴィズム 」はその失敗に対するリベラル陣営からの楽観的な言い訳に過ぎないと私は思う。

さて、そうであれば結論は簡単である。我々の教育のベースにあった「リベラリズム」は誤りである。つまり教育そのものが失敗だったのである。若い世代は既に気がついており、マスメディアが流す旧態依然としたリベラリズムや学校教育でのリベラリズムをほとんど信じていない。2016年の都知事選で明らかになったように「リベラリズム」という「ドリーマー」はもはや無効なのである。すると立脚すべき観点は「リアリズム」しかない。

リアリズムは要するに「利己主義的国家が権力と安全保障をめぐって常に競い合う」ことを自明のこととして受け入れ、その中で「不肖の器」たる兵を簡単に動かすことなく、パワーバランスをとって行く「苦しく厳しい」ものである。だが、現実が適者生存のダーウィニズムの理論で動いている以上、ここから目を背けること自体が単なる逃避であり、グローバル・リベラリズムとは壮大な偽善だったのだろう。

利己的な遺伝子の乗り物(ドーキンス)でしかない我々の本性は競争、つまり競い、争うことである。そして活力のある国家とは結局のところ「野蛮である」ものである。野蛮な活力のある相手に対応しながら生き残る戦略はこちらも「狡猾かつ野蛮」であることしかない。それは生物学的には男性の役割である。リベラリズムの失敗が明らかになった今、リアリズムに基づいた「狡猾な野蛮」さが我が国、或いは文明世界を守るために必要な構えであろう。

誤解を避けるために最後に記すが、戦前の無謀な帝国主義日本を復活せよとか、戦争せよとか主張している訳ではない。そうではなくて、野蛮であることを忘れ、戦士たることを忌避する文明・国家は衰退すると言っているだけである。日本は日本の生存と世界の平和のために「狡猾な野蛮」さを身に着けろということである。それは決して「(日本を)取り戻せ」ではない。あたかも戦国期から徳川初期の武士のように真摯かつ知的、そして平和的でありつつも常に帯刀し、稽古を怠らないスタンスを身に付けよという意味である。

また、女性の社会進出を否定するものでもない。ただ、男性並に働きたくはなく、育児や家庭に重きを置いたり、専念したい女性にはそうするだけの仕組みを用意すべきと思うだけだ。男性並みに働いて、男性以上に所得を得、或いは国家を指導する女性は尊重されるべきだし、それは男女は関係ない。だからと言って、パートや専業主婦を侮蔑する理由にはなるまい。そうではなくて国家全体として「生命の法則」に逆らうと衰退するという厳然たる事実があるということである。


「世の中が不穏であることから逃避する」これは最悪の選択肢である。皆忘れているが、「座して死を待つ」以外の何物でもない。

2017年4月28日金曜日

建前論の行き着く先、或いは地獄の敷石

この世は矛盾に満ちている。矛盾というより逆説(パラドクス)と言うべきだろうか。成長途上の子供や若者ならばともかく、普通の大人は「建前は建前」であることを知っているものだ。それほど自覚的でなくとも、特に「正義」の衣を纏った建前には「ああ、反論させたくないということだな」と解釈できるのが普通の大人である。

ところが世の中にはこの建前というものを本気で信じてしまう人が存在する。それには色々な理由があるだろう。生まれつき宗教家の素養があったり、己や世界を客観視できるほどの知性がなかったり、ある種の教条主義的な家庭で育ち、精神的親離れができなかったり等々。しかしそのような人々は少数派だろう。いずれも「滅多にいない」レベルの少数派である。

それにしては建前を本気で信じてしまう人が世の中に多い。何の話をしているかと言えば、ポリティカル・コレクトネスの話である。近頃はPCやポリコレという略称で日本でも定着してきた。このポリティカル・コレクトネスの本家である欧州や米国では逆差別問題や反グローバリズムが目立つなかで、むしろそのピークを過ぎている。しかし「欧米の後追い」が大好きな日本においては周回遅れで流行する可能性がある。



すでにある程度「スチュワーデス」⇒「キャビンアテンダント」「保母⇒保育士」などのフェミニズムの文脈で日本も影響を受けている。しかし行き過ぎると息苦しい社会になるのでそんなものが定着してほしくはない。只でさえ「敗戦+日本国憲法」を核とした「戦後民主主義・戦前絶対否定主義」という日本流ポリティカル・コレクトネスの横行が弱まったのに、欧米流のそれが日本に流入すると善意の地獄のようなものが現出するかもしれない。

さて、ポリティカル・コレクトネスの定義だが「政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のこと」(Wikipedia)だそうである。
これだけ読めばまことに結構なことなのだが、普通に考えてこんなものは「イデア界」にしか存在しない。或いは最後の審判の後の神の国にしかあるまい。神ならぬ身で、一体誰が「公正・公平・中立」を保証するというのか。

ポリティカル・コレクトネス は1980年代の米国から始まった奇妙なムーブメントなのだが、それが世界に広まりつつあるのがおかしなことである。別段どこの国でもその国の暗い過去の歴史に起因するタブーは存在する。そのタブーに触れない、或いは克服する努力はあるし、それがそれぞれの国のポリティカル・コレクトネスである。だからそれぞれの国と地域に限定しておけばいいものを、米国人は世界化したがり、西欧人は欧州全体に押し広げようとする。

大体においてポリティカル・コレクトネスが叫ばれる領域は「人種」「宗教」「性別」「文化」である。端的に言って主にキリスト教が基盤となったとした白人社会の話である。結論を申せば「白人がこれまで犯してきた罪の意識への救済として、贖罪のために善意を押付けている」というだけである。もはや「神は死んだ」現代では、人間理性を神の代わりに置くしかないのであろう。(それがどれほど恐ろしい現実を招来するか、フランス革命で学んだはずなのだが。)

米国は先代の大統領が黒人だったが、建国以来の長い黒人差別(正確には黄色人種である先住民を含む有色人種への差別)の歴史がある。それがあまりにも身近であり、また1945年以降の人種平等的イデオロギーの世界的伝播、キング牧師やマルコムX、或いはブラックパンサーなども含む非暴力或いは暴力的な黒人解放運動(公民権運動)の努力と闘争の結果、少なくとも表立っての差別は「悪いこと」というものが定着した。また、キリスト教的(ピューリタン的というべきか)な発想から女性の社会的地位が歴史的に低かったため、反動としてのフェミニズムが勃興し、こちらも表立っての差別は「悪いこと」として定着した。(ガラスの天井云々でいまだに続いている)

一方西欧だが、こちらはユダヤ人への差別がその歴史の伏流となっている。また、大航海時代から始まる帝国主義により有色人種を暴力的に支配する一方で、1700年代まで宗教戦争が横行した地域である。それらの結末として、ナチス・ドイツが台頭し、ユダヤ人(ロマ:ジプシーも含む)のホロコーストを繰り広げた。その反動としてナチス的なものの徹底的な否定、ユダヤ人やロマ、アラブ人などへの差別の否定、欧州内での非戦などをイデオロギーとして「EU」が生まれた。そのイデオロギーこそがある種のポリティカル・コレクトネスなので、これを否定することは絶対のタブーだ。(自壊しつつあるけれど)

翻って日本だが、欧米流のポリティカル・コレクトネスは、はっきり申し上げて「何の関係もないのに、わけのわからない正義を押付けられてもこまるだけ」である。しかも、所詮は建前に過ぎないこともわれわれ大人は知っている。米国では厳然と黒人は差別されているし、欧州で不快な思いは何度もしている。(イタリアは例外だけど)

西欧諸国や米国と日本は価値観も歴史も共有していない。あるのは同じ「近代国家」という共通点だけであり、最低限のルール共有(最恵国待遇などの付き合いや国際法)はしているが、我々には黒人奴隷を使役したり、セックススレイブ(アメリカの黒人の肌の色に幅があるのはこのせいだ)にしたり、ユダヤ人を差別したり、宗教戦争で近代まで殺しあった歴史などない。

勿論、日本の歴史に暗部がないと言っている訳ではない。織田信長が比叡山を焼き討ちするまで宗教戦争はあったし、現代まで続く部落問題もある。中共による誇大宣伝はともかく、人身売買もあれば売買春もあった。だが、それはそれで個別の事情である。少なくとも欧米流のポリティカル・コレクトネスとは何の関係もない。参考にはなるのかもしれないが、真似する必要も恐縮する必要もどこにもありはしないのだ。

グローバリズムの信奉者は二言目には「ダイバーシティ」という。だが、不思議なことにグローバリズム自体が世界の単一化を志向していることに気がつかない。ファシズム(全体主義)は危険だというくせに、全体を同じ方向に向けようとする。迷惑千万である。

たとえば、日本においては女性の地位は低くない。今も昔もである。妻が夫の財布を握っていることが主流な国でよくも地位が低いなどといったものだ。ルイス・フロイスも驚いて書いているではないか。「日本では女性は男性の所有物ではない。よき友であり、理解者であり、妻である」と。

ついでに言えば、明治日本が西欧流の「女性は男性の所有物」というのを猿真似したのだ。結局定着しなかったけれど。(サラリーマン諸君を見よ!)

近頃はようやくグローバリズムへの反省が出てきた。「一つのヨーロッパ」ではなくて「さまざまなヨーロッパ」の並存が望ましいとエマニュエル・トッドは言う。欧州については他人事であるが、賛成である。世界が単一になるなんて、退屈きわまりないではないか。


地獄への道の敷石は善意で舗装されている」そうである。このポリティカル・コレクトネスという善意はまさにその舗装の化粧石だろう。言ってしまえば「偽善」である。偽善がルールの世界はユートピアでもネバーランドでも桃源郷でもエルドラドでもない。それは端的な「地獄」である。