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2019年2月4日月曜日

維持フェーズへの転換


企業のライフサイクルは様々だが、コンサルタントとして、或いは従業員として、創業期から維持期への転換を見た。また、すでに維持期に入っている、日系の大企業と外資系の大企業も内部から眺めていた。否、少しでも前に進めるためにもがいていたというほうが正しいが。
20年ちょっとの社会人生活の中で、それぞれライフサイクルにおいてステージの異なる企業と深くかかわる中で、なにやら自然法則のようなものが見えてきたように思う。いつかは丁寧に書くとして、ここでは「法則」にかかわるスケッチを描いてみたい。


◆成長フェーズから維持フェーズの転換
ある企業が急速に成長することがある。私がかかわったある企業はおよそ十数年の間に、ベンチャーから3000人の規模に成長し、国内市場でも有数のシェアを占めるまでとなった。時流に乗り、倍々ゲームで成長を続けていたが、3000人を超えたあたりで、急速に成長が鈍化。丁度リーマンショックもあって、マイナス成長を記録することもあるようになった。その業界は非常に労働集約型であり、一定以上のスキルと体力と行動力が必要な業界である。そのような企業が成長した要因として最も大きいのは「時流」に乗ったことがあるだろう。
この企業は「人材企業」であり、企業への人材派遣、人材紹介(正社員候補の紹介・転職の仲介)が中核事業であった。

この企業を仮にA社とする。A社は2000年代に急速に成長した。2000年代と言えば、どういうわけだか熱狂的な国民の支持を得て小泉内閣による新自由主義的政策の嵐が吹き荒れた時期である。新自由主義の定義は置いて、企業経営者の間で「人件費という固定費を縮小、或いは変動費に変換する」というブームがあったことは間違いない。終身雇用をはじめとする日本型経営が、経済の成長鈍化或いはマイナス成長を背景に疑われ始め、ブルーカラー労働者のみが対象であった期間工的発想をホワイトカラーに持ち込んだ時期であった。2019年の現在でも大きくは変わっていないが、企業が人件費を抑制した結果、賃金水準は横ばいからマイナスが当たり前になり、ただでさえ少子高齢化でデフレーションが進んでいたところに、追い打ちをかけるように景気を直撃するととなった。
そうしたデフレーションを梃子に大きく成長した企業がいくつかある。その一連の企業群は雇用において買い手市場であり、人件費を抑えることが成長のコアとなるような労働集約的企業群である。後に過労死や過労自殺などが発生することで「ブラック企業」といわれるようになる企業が多い。A社も御多分にもれず、労働集約型業務を低い人件費で遂行することで成長したのである。それが前述の「時流」に乗ったという意味である。

とはいうものの、売上が倍々ゲームで伸び、賃金も倍々とはいかなくとも伸びているベンチャー企業の急成長の時期には問題は表面化しない。社員数も少なく、コミュニケーションも活発であり、若くして役職者や役員となっていく先輩社員を見ている間は、多少労働環境が悪かろうと、人は心を病んだりしない。
心を病むのは先の見通しが立たないまま過酷な環境に置かれているからである。「今に見てろよ、俺だって/私だって」というマインドが支配的なのが成長期のベンチャーというものである。
しかし、市場は変化する。これまでのビジネスモデルが通用しなくなる日は必ずやってくる。市場それ自体は変化しなくとも、そのビジネスモデルが成功すればするほど、模倣者も増え、市場も飽和し、これまでのやり方だけでは成長が鈍る。この「停滞」の段階が、一定以上の規模になる前にやってくる企業は、大企業にはなり得ない。それらは、幸運なら大企業に吸収されたり、不幸ならば倒産したりと消滅するか、中小企業として細々と続いていくかする。しかし、「停滞」前にある程度の規模まで成長した企業が大企業候補となるわけだ。

「大企業」ではなく「大企業候補」としたのは、ベンチャーが所謂「大企業」になるには、規模だけが条件ではないからである。規模はあくまで必要条件であり、十分条件ではない。大企業になるには質的転換が必要なのである。言い換えると、成長フェーズから維持フェーズへ転換することであり、ある意味では経営者にとって「夢をあきらめる」ということにもなる。

◆成長が鈍化した時に起きる事
日系の大手製造業でも勤務した経験から、当り前だが大企業とベンチャーでは、社員のマインドが大きく異なると認識している。敢えて対比すれば、以下のようになろうか。
  • ベンチャー:野武士的・混沌・非効率・陽性・大変
  • 大企業:官僚的・秩序・効率的・陰性・シンドイ
大企業はすでに成功してしまったため、当たり前だがそれを維持することが主目的になる。維持だけではないという声もあろうから、発展的維持とでもしておこう。どうやって現状を効率的に回すかが主目的になるため、社員の意識は「効率化」に向く。メンバーがバラバラでは効率的にならないため、基本的には秩序を志向し、様々なルールが取り決められ、保守的になっていく。官僚的になっていく。これは、ほとんど自然現象と言いたくなる不可避な現象である。

創業期、或いは成長期のベンチャーはその逆だと思えばよい。まだ成功していないか、成功しつつあるかであるため、「いかにして成功するか」「いかにして成功を確かなものにするか」を社員は追求する。様々な方法を試すため、無秩序で混沌としているが、「成功」にたどり着くという目的は共有されている。人的リソースも少ないところから、一人で何役もこなす野武士的なスーパーマンが活躍し、明らかに非効率で、大変であってもその大変さは陽性である。またその経験からスーパーマンたちはさらに仕事のやり方を洗練させていく。その結果、さらに会社は成長していく。

しかし、個人と同じように、企業も永久に成長し続けることはできない。ある程度の規模となると、企業内と企業外での環境的な変化が必然的に発生する。まず企業内においてはコミュニケーションが急に難しくなる。経営層の発案や指示が末端まで届かなくなる。現場からの情報は経営層に届かなくなる。双方とも悪意があるわけではない。しかし、社員が増え、場所が広くなり、関係者が増えると、コミュニケーションコストが指数関数的に増大する。いわば壮大な伝言ゲームとなるわけだ。そのコミュニケーションコストを回避するため、組織を階層化し、部課長を設置しとしていかざるを得ない。すると経営層の発案は指示は、部課長という幾人かのフィルタを通してしか伝わらなくなる。
部課長は単なるメッセンジャではない。それぞれのミッションを抱え、部下のマネジメントを行っている。その中で、経営層の発案や指示も、部下に分かり易いように、或いはミッションに沿う形で部課長の解釈を経て、末端まで伝達される。また伝達された指示も部下が自分なりに解釈するため、場合によっては殆ど真逆のものとして実行されることもある。そのような「エラーの発生」の確率は人数が増えれば増えるほど増大する。

現場から経営層の情報伝達も同じである。ベンチャー時代には社長と現場が直接コミュニケーションを実施しており、ミス(エラー)はほとんど発生しない。どちらも納得するまでコミュニケーションをするし、また人数が少ないため、それだけの時間をかけることができる。また、しっかりと理解して正しい判断を下さないとすぐに倒産の憂き目に合う可能性もあるため、お互いに真剣である。しかし、先ほどの逆に情報が上がっていくとき、部課長というフィルタが入る。そこに解釈が生まれる。そして、保身もある。バッドニュースファーストが報告の基本だが、バッドニュースが捻じ曲げられて報告される。それがほんの僅かな歪みであっても、フィルタを通るたびにその歪みが増え、経営層に届くころには逆の情報になったりする。

このようなコミュニケーションコストを削減するために、管理の専門家が必要となる。それはスタッフ部門であり、機能としては「官僚」である。スタッフ部門は目的に沿ってルールを作り、それを守らせ、全体としてのコミュニケーションを最適化しようとする。本質的に維持・管理の番人になる。会社の規模に比例して、スタッフ部門の大きさや権限も大きくなっていく。良い悪いではなく、そうしないとコミュニケーションコストの負荷で、金を生み出す本来業務が遂行できなくなってしまう。

◆大企業へ転換するということ
その副作用として、ルールを守らない野武士的なスーパーマンは組織に居場所がなくなる。創業期には多少のわがままや無軌道は「あの能力はかけがえないから、必要だから」と許容されていても、組織がコミュニケーションの円滑化のために、ルールを作り、標準化を始めると、組織メンバーにとって「ルールを守らない」ことそのものが、耐えがたいほどのコミュニケーションコストになる。その一人のために、全体のコミュニケーションコストが跳ね上がり、また「ルールも守れないくせに、初期メンバーというだけで高給を取っている」と見做されて始める。多くの場合、能力もありプライドの高い「野武士」達は転職先に困ることもないので、その組織を去っていく。

また、新たに加入してくる新入/中途のニューカマーたちの意識も変化してくる。ベンチャー時代に参画するメンバーは「ベンチャーへ参画する」という明確な意識をもって入社してくる。未整備であるが故に、ビジネス用語で言う「セルフスターター」には魅力的な環境であり、どこまでが自分の仕事などの区別などせず、また多少の暴走も自分で取り返せばよいという感覚を持ったメンバーが加入してくる。しかし、例えば1000人を超えた企業へのニューカマーたちは、「ベンチャーへ参画する」などという感覚は持ちようがない。当然のように「大企業」へ就職できたと考えるであろう。この手の人々はいわゆる「(学校)秀才型」が多く、目的や目標を自ら考えられるタイプではない。どちらかというと与えられた仕事を着実にこなすことが得意であり、官僚主義と親和性が高い。すると古参メンバは「最近の新人は『口開けて待ってるだけ』『自分から仕事を取りにいかない』」などと嘆いたりするわけである。

しかし、時計の針を戻すことは不可能である。またある種の法則性に沿って成長が企業の「質的転換」を不可避的に起こしてしまうことに対して嘆いても仕方がない。永久ベンチャーは決して成立しない。もしやり方があるとすれば、雇用の流動性を極大化して「いつでもクビを切れる」状態を維持することで、官僚主義を排すること(外資系コンサルティングファームなどで実践されている)があるが、日本においては文化の面でも雇用慣習の面でも、或いは法的な面でも難しいであろう。

残念ながら、大企業になることはベンチャースピリットを捨てることに限りなく近い。言い換えると「つまらない会社になる」という事である。しかし、それを受け入れない限り、永久ベンチャーを追求する企業は自壊するであろう。これはあたかも自然法則のような組織の必然のようである。

2018年6月22日金曜日

帝王学の現代性~FY01の振返りに代えて~


今月は決算月である。会社設立の一年目を無事に迎えることができた。様々な幸運が重なった結果であり、皆様に心から感謝申し上げる。これは決して謙遜でも社交辞令でもない。そのように仕事はつながっていくということが理解できた結果である。さて、つらつらと1年間の仕事の経緯を振り返ってみてもあまり芸があるように思えないし、読者諸兄姉の参考になるとも思えないので、仕事を通じて気が付いたことを分析・整理してみることにする。


◆草創と守成といずれが難き
サラリーマン時代だが、急成長しベンチャーから抜け出た直後の会社に一年間お世話になっていたことがある。中に入ってみると、ロケーションやロゴ、企業スローガンなどは立派なのだが、業務は属人的で混沌としており、非常に非効率であった。そして非効率であるがゆえに、長時間労働は当たりまえであり、業界内ではいわゆる「ブラック企業」と呼ばれていた。リーマンショックを契機としてリストラという名の人員整理、経営者の交代を経て、今では立派にブラックとは呼ばれない大企業となっている。
この一年、支援してきたクライアント企業も同様に急成長し目下社員数数千名の大企業である。しかしブラック企業ではないものの、やはり非常に似た雰囲気である。やはり業務が属人的で非効率であり、ベテランメンバが「我流」を貫くやり方はどこか共通している。

ところで『貞観政要』という8世紀に書かれた唐の古典がある。この本は唐帝国の中興の祖である太宗と家臣の言行録として、その太宗の後継者へ「帝王とは如何にあるべきか」を教育するために書かれたもので、日本においては帝王学のテキストとして、北条政子や徳川家康が愛読していたそうだ。この中に「創業(草創)と維持(守成)のどちらが難しいか」という言葉が出てくる。結論から言えば「維持」の方が難しい(と考えるべき)と結論付けている。

◆創業向きと維持向きの人材は違う
『貞観政要』にもあるが、創業向きの人材と維持向きの人材は異なる。創業者はいわゆる立志伝中の人であったり、強烈なカリスマを持つトップが多い。そしてその周囲に普通ではない豪傑サラリーマンが集い、語り草になるような猛烈な働き方や伝説的な活躍をしたりする。そうした人材が創業向きである。私の乏しい社会人経験でも何人か知っているが、何時寝ているのか?と思うような24時間仕事に遊びに全力を尽くしているタイプが多かった。大抵、優秀で個性的でもあり、指示待ちではないというより、指示されることが嫌いである。外向的、情熱的で癖が強い。三国志で言えば、曹操の周りの豪傑たちと言うところか。
しかし、企業がある程度まで成長した後はそうした豪傑はあまり必要がなくなる。豪傑たちが作り上げた仕事を業務として仕組化し、それを維持・発展させる段階になると、むしろ「常識人」の出番となる。イメージとしては学校秀才でTPOを弁えたある意味で官僚的な人材が必要となってくる。これらの人々は指示されることにさほど違和感がない。混沌よりは秩序を、試行錯誤よりは効率化が重視される。この状態になると豪傑の持つ「強引さ・無秩序さ」は効率化の妨げになるため、あまり適合しなくなる。

◆創業期と維持期の間
さて、会社がある程度の規模になったり、ある程度存続できたとき、維持のフェーズは必ずやってくる。企業に限らず、黎明期から成長期を終えた組織体には必ず移行期が来る。例えば、私は子供の頃から地元商店街の町おこしの一環の「阿波踊り」の連(チーム)に参加していた。黎明期は商店街のオヤジ達がお囃子を、その子供たち(私もその一人だ)が踊り手をしていた。阿波踊りとしてのレベルはマチマチであったが、飛び入りも可だったし、基本的に盛り上げればよいというものだった。しかし、その二世たちが主催している現在は大所帯になり、連員の管理や練習の管理などが必須になり、良くも悪くも官僚的になる。阿波踊りとしてのレベルはかなり高いレベルで均質化している。初期のオヤジ達のようにふるまうと、効率化のベクトルと合致しないため、あまり歓迎されないだろう。これは組織の成長に伴う必然のように思える。

この移行期をスムーズに乗り切る企業もあるだろう。しかし、試練の時を迎える企業も非常に多い。『貞観政要』もまさにこの移行期の君主(リーダ)と臣下(メンバ)をテーマにしている。それが帝王学のテキストとなるからには、この移行期の問題はどの組織にも通じる普遍性のある問題なのだろう。

◆永久ベンチャーは成立しない
この移行期に特有の状態として、上層部(経営層)は創業期の立役者、ミドルは創業期の若手で構成されている。従って、創業期の陽性の無茶苦茶を成功体験として持っている。しかし、すでに大きく成長したその企業に入社してくる新人や若手は「ベンチャー」と見做して入るわけではない。その名声にふさわしいだけのある程度確立した企業だと考えて入社してくるわけである。これらの人々は会社に対して勝手に貢献するような人々ではない。良くも悪くも豪傑の上層部、その豪傑についていくだけの能力と野性味があった野武士的なミドル層に対して、学校秀才的な新参者は的確な指示がないと動けない。当り前である。その名声に引き付けられるのは、良くも悪くも安定志向の人々である。そのような安定志向の彼/彼女たちは「維持期」向けの人材である。
豪傑や野武士は「最近の若手は自主性に乏しい」「マニュアルばかり求める」「俺たちの時は勝手に仕事を探して貢献したもんだ」「人事は何を見ているんだ」等と嘆く。しかし、残念ながら当たりまえなのだ。十数年前の自分たちのように自主性に富む人々は大企業なんかに入ってこない。起業しているかベンチャーに行くだろう。さらに自分たちの成功体験が強烈なので、事情のあまりわかっていない若手が「勝手に」仕事をすれば烈火のごとく怒ったり、挙句にマイクロマネジメントに陥ったりもする。にも拘らず、自分たちのノウハウをマニュアルやルールとして文書化していないので、若手は何を基準に動いたらいいかわからないのだ。そして人事だが「自主性に富む≒忠誠心が低い」のは当然であるため、そのような人材を回避するものである。おかしな癖のある新人を採用して現場に文句を言われたくもあるまい。従って、創業者や豪傑たちの夢である「永久ベンチャー」は殆ど絶対に成立しないのである。
「永久ベンチャー」とはご想像の通り、「創業期の勢いと活性度のまま成長を続ける企業」のことだが、そのようなことにはまずならない。ほとんど法則のごとくならない。この移行期間はその会社が非常に不安定になる。これは上位層が自分たちの理想を諦め、中間層が仕事を標準化・マニュアル化することを受け入れるまで続く。

◆老いてもはや諫めを入れぬ王は貧しい羊飼いの子供にも劣る
しかし、これは創業メンバにとっては非常に難しいことのようだ。私自身も駆け出しの経営者だが、己一代で大企業に成長させたような経営者達はやはりものすごい。その実績/姿勢/カリスマ性は私のようなすれっからしでさえ尊敬に値すると考える。お世辞ではなく、人並み外れた力量があったがためにそこまで会社なり組織を成長させたわけである。だが、その強烈すぎる成功体験は人を全能感に陥れる。この全能感を制御するのは普通の人間には難しい。周囲には耳障りのよいことしか言わないYESMANばかりが集まり、会社に関することに限定されるとは言え、意のままにならないことはなく、マスメディアなどでも賞賛されという状態で正気を保つことはできない。だからこそ「帝王学」が必要になる。「帝王学」は「人をどう使うか、意のままに操るか」と一般に勘違いされているが、実際には真逆で「いかにして自分の全能感を制御して正気を保つか」という方法論に近い。旧約聖書の時代にも「老いてもはや諫めを入れぬ王は貧しい羊飼いの子供にも劣る」という言葉がある通り、これは人類普遍的なテーマらしい。この帝王学を身に着けえなかった帝王は必ず、身内に裏切られて滅ぶのである。織田信長しかり、隋の煬帝しかり、そしておそらくスターリンも。そしてそれは「是非もなし(良い悪いはない・仕方ない)」なのである。それを直接知っていた徳川家康は信長(や独裁者としての秀吉)を反面教師として強い危機感の下『貞観政要』を学んだのだろう。

◆現場の軍師として/経営者として
コンサルタントとしてまさに移行期にあるクライアントの企業の現場を支えることがこの一年のミッションであった。そのミッションを通して一番強く感じ、考えたことを今回は整理した。ここでまとめた問題の一つの解決策として『貞観政要』のような帝王学を次世代のリーダクラスに紹介・解説するようなコンテンツを作成し、研修の形で展開することがあるかもしれない。勿論、『貞観政要』のような名著を私が書けるわけではない。しかし、そのロジックを紹介し、換骨奪胎して現代日本人が理解しやすいようにまとめることはできるかもしれぬ。少なくとも二年目はこのコンテンツ作りとソリューション開発にも力を入れていきたいと考えている。



2018年5月24日木曜日

「ITの世界において日本は世界に貢献していない」について


最近ネット記事などを読んでいると「ITの世界において日本は世界に貢献していない」という趣旨の言葉を目にする。元々ITでは存在感の薄い日本であるので、まあそんなものだろうとは思うが、製造業やほかの業界から見ると「どんなことになっているのか??」という疑問もあろうかと考えるので、少し考えてみる。


IT技術はネットワーク技術の発達によって「時間と空間を超える」事をその本質の一つに加えた。要するにインターネットを媒介として、世界のどこにいようとも、瞬時に情報共有やコミュニケーションが成立する。IT業界に限らず、社会的にも政治的にもこのことの意味は大きく、協力であれ、対立であれ国境や国籍の意味が多少なりとも薄れてきた。

さて、協力と対立の内「協力」に着目してみる。インターネット上には様々な国籍を問わないコミュニティが大小問わず、自然かつ大量に発生しているのが現状である。FacebookやTwitterなどのSNSはその基盤の一つであるし、国際的なコミュニティが達成した成果としてはコンピュータOS「LINUX」などがある。勿論、現在進行形で様々なインターネット上のコミュニティがあり、IT業界においては相互に情報やノウハウを共有したり、切磋琢磨したりしている。IT技術はあまりにもその進歩が速いため、情報を囲い込むよりも共有し、相互フィードバックすることで技術者自身はその技術をブラッシュアップし、自分の技術の陳腐化を防ぐことができる。また、相互フィードバックなので、その技術者の知見もコミュニティに還元することで、そのコミュニティへの貢献となるわけである。

しかし、ネットワーク技術でも超えられない壁がある。お分かりの通り「語学」、この世界のデファクトスタンダードである英語がそれである。一般に「日本人は英語の読み書きはできるが、会話が苦手」と言われていたりする。しかし、私の見るところ多くのIT技術者を含む日本人は「読み書きすらままならない」のが実態であり、ましてや「会話」などほとんどできない。勿論例外はかなり多いが、大多数はその状況なので、英語のコミュニティから見れば「いないも同然」であり、活発な英語話者のメンバにとって「日本からの貢献」は無きに等しい。従って、「ITの世界において日本は世界に貢献していない」という命題は真であるし、これからも劇的に変化することはないだろう。

個人としては・・・
技術者個人としての対処方法は大きく3つある。一つ目は英語コミュニティに飛び込みながら英語を身に着けて、そのコミュニティに貢献するという方法である。実際にはさほど難易度が高いわけではないだろうが、幼少期から、英語(と外国人、特に欧米人)に対するコンプレックスを植え付けられて育った土着の日本人には心理的障壁が高すぎて、この道を取る人が多数派になることはない。従ってライバルとなる日本人は少ないため、国内での希少価値は高く維持できる。個人に対して私が推奨する方法はこれである。英語で仕事と仕事の話ができる技術者は日本においては永久に少数派なので、英米文化と英語の天下が続く以上は強力なアドバンテージとなる。

二つ目は「そういうもの」と割り切って、日本で、日本語の仕事に徹し、世界貢献など相手にしないことである。実はライバルが多く、よほど独自性や高い技術力を持たないと代替可能な人材にしかなり得ないので、収入面でもよいことはない。しかし、得意なことに特化して自分のリソースを投下できるし、日本国内の市場は小さくないので生きていくことはできるだろう。また日本語を障壁に使うことができるので、国内で開発された技術を国内の中でフィードバックし合いながら高め合うと同時に、非日本語話者を排除することもできるだろう。ただこれについてはあまり可能性がない。それはIT業界においては日本の技術はむしろ後進であるからである。茨の道だが、大多数の日本の技術者がこの道を選択するだろう。

三つ目は「諦める」である。世界への貢献どころか、国内への貢献、社会への貢献も諦めて、人間関係で食いつないでいくことである。得意な人は得意だろうし、特に否定はしない。しかし、技術を追求しなくなった時点で、技術者としては死を迎え、管理者やコンサルタントなどに生まれ変わる等をしない限り、その人はゾンビである。本人がゾンビであることを許容するのはOKだが、流動性が高まる雇用環境において、被雇用者としては非常に厳しい状況に置かれることは認識したほうがよい。

経営の立場としては・・・
日本人の英語力向上やらグローバル人材育成やらというような話は、基本的にうまくいかない。前述のように、モノリンガルな技術者が絶対多数で今後もあり続けるだろう。「世界へ貢献」などする気がなくとも、日本で生き残っていけるだろう。経営目標の究極は「ゴーイングコンサーン」なので、それはそれでも何も困らない。経営者がどうしたいかが殆ど全てである。しかし、Web系のベンチャーは是が非でも国際的なコミュニティに参加し、最新の技術をキャッチアップし続けたほうがいい。舶来上等は骨がらみで、相変わらず米英発の技術はありがたがられるし、実際に日本よりも進んだ技術やトレンドを活用できるだろう。

一次請けのSIerならば、現状以上にビジネスモデルを改善するのは難しい。ITゼネコンであることを徹底し、技術よりも人的ネットワークと管理技術を徹底的に鍛えるほうが生存確率があがるだろう。下手に改革すると、市場における優位性を失いそうである。ただし、海外展開をする場合はこの限りではないが、日本国内のパイは大きいので、そこまで切実に「グローバル化」する必要はないはずだ。

二次請け以降の小規模SIerで、その状況を打破したいならば、技術力を向上する方向性は有力な選択肢である。自社プロダクトを追求すると同時に「コードが書けない/技術力がない」管理職を撲滅するところからスタートしてはどうだろうか。おそらく技術者たちは「IT業界最底辺」の自己認識に苦しんでいるはずなので、そこを打破するきっかけとして、技術力至上主義と世界コミュニティへの貢献を旗印にするのも悪い選択肢ではないと考える。その場合はDevOpsなどの導入方法論も磨いていくと鬼に金棒となるだろう。事業会社主体でのシステム導入を進め、米国式に業務システムは内製化の流れを作るという戦略などもありうる。

国家・政府としては・・・
経営まではコンサルタントとして、対応施策を記したつもりであるが、国家や政府に対しては評論家的に意見を述べるほかはない。

さて、日本政府がIT産業においては、殆ど全ての観点で「米国はもちろん、インドや中国に対しても日本の優位性はない」という認識を持っているだろうか。恐らくあるまい。また、それを語学の問題に収斂させがちだが、それは問題の矮小化である。また、私利を追求することで社会へ貢献する個人や経営者と異なり、平均的、或いは平均以下の個人も考慮に入れて政策を行わなくてはならない。自由放任かつ弱肉強食というのはすでに政治ではない。それは政治の放棄である。

まず、ITという成長産業において、技術の最前線に立つプログラマ(コーダー)が、最下層のヒエラルキーに組み込まれているという現状を認識していただきたい。名だたる国内のSIerには営業力と調整力と管理能力があるだけで、産業構造としてその下に組み込まれた、二次請けや技術派遣、或いは偽装請負のシステムエンジニアやプログラマが支えている。彼・彼女たちは非常に低い単価、即ち賃金で業界を支えている。IT土方という言葉があるように、ほぼ「誰でもできる仕事」と位置付けられている。語学がどうこうというより、成長産業にいながら、死んだ魚のような眼をした労働者をなんとかするのが先だろう。

その上でこの産業は(宗主国の)米国がトップランナーなのだから、英語でのコミュニケーションスキルは大きなアドバンテージになり得る。つまりIT技術者は英語を学ぶ動機が本来ある層である。しかし、国家ぐるみで英語への劣等感を拡大再生産する上、語学が苦手な層とかなりの率で被るので、この層は語学に対するモチベーションそれ自体が破壊されている人が多い。あくまで私見というか偏見ではあるが。

学校教育で英語でのコミュニケーションができるようになるなどと言う実現不可能な目標は諦めて、取り敢えず、中学英語で最低限の単語と文法を覚えたら、あとは語学学校に任せて、必修科目から外すなど、劣等感の払拭をメインテーマに据えていただきたい。劣等感という心理的障壁がなければ、必要に応じてJavaやC#やSQLと同様にこの層は英語を身に着けることができるだろう。

何しろ、まずは劣等感をなんとかしないことには、最初から負けているし、いじけたままでは貢献する気など起きないのが人情というものであろう。

2017年3月24日金曜日

経営コンサルティングとITコンサルティングの狭間(自己紹介:仕事編)

「IT系何でも屋」が現状の実質的な職務ですが、自己認識としては「経営系ITコンサルタント」です。「系」ってなんだよ?とわりとよく訊かれるので、もっとよい言い方がないものかと考えますが、なかなか良い呼称が見つかりません。ともかく「経営系ITコンサルタント」という造語を定義しながら、「経営とIT」の整理をしておきます。



経営コンサルタントは業務遂行に特別な資格が必要ないこともあって、なかなか定義が難しいものです。一般的には「経営理論」「財務会計」「業務運用」「組織管理」などの理論に精通し、特定領域の実務経験やコンサルティング業務経験に基づいて、経営者・経営層に対して根拠のある的確なアドバイスや経営計画作成の支援を行う人というところでしょうか。勿論、得手不得手やそれぞれの専門性はあっても、まずはこのあたりの専門家であることが経営コンサルタントを名乗るための資格でしょう。

次にITコンサルタントですが、これも定義が非常に難しいものです。ベテランのシステムエンジニアやプロジェクト・マネジャをITコンサルタントと呼んだり、ERPに代表されるパッケージシステムの導入の専門家をそう呼んだりします。とはいえ、その経験と知識に基づき、IT製品・サービスの導入と活用によって、経営上の問題を解決に導く専門家というのが、その定義でよいでしょう。

さて、「経営とIT」はほぼ不可分の領域ですが、現実には経営や実務に強い経営コンサルタントはITに精通しているケースは少なく、ITコンサルタントは経営や実務について疎いというのが、割とよくある話です。経営コンサルの立場で言えば、IT屋は経営や実務を知らず、理想的かつ教科書的な業務を想定してシステムを導入したがる連中だという認識ですし、ITコンサルタントからすると「そんな課題はITで一発解決するのに、経営コンサルは回り道ばかりする」というのが得てしてその認識だったりします。

経営実務とIT双方に精通するのは、実際かなり無理があります。どちらも広大かつ複雑な海のような領域なので、たとえて言うと「太平洋」と「大西洋」双方を地理学・海洋学・生物学・気象学・航海・船舶などの観点で、少なくともすべてを広範囲に知っており、かついずれかの分野で専門性を持っているという状態だからです。これは一人の人間にはいくらなんでも無理です。経営とITに精通するというのは大げさに言えばそういうことです。

その問題を解決するため大手コンサルティングファームならば、それぞれの領域の専門家を束ねたプロジェクトチームで案件にあたります。その結果、ただでさえ単価が高いコンサルティングフィーは非常に高額なものとなり、中小企業ではなかなか手が出ないものになっています。(2000万~数億のオーダー)

本来、改善の余地が多く、経営にせよITにせよコンサルティングが有用なのは中小企業のはずですが、大手ファームはなかなか利用できません。従って、中小企業が利用するのはフリーや小規模なコンサル会社というケースがほとんどでしょう。そうすると、それぞれのコンサルタントは経営実務には詳しくてもITが弱い、あるいはITは強いが経営実務は苦手ということになりがちです。

そこに私のような「経営系ITコンサル」の役割があると考えています。基本的なベースとして製造業・流通業を中心に業務コンサルティングを行いながら、「要求定義」や「ビジネスフロー」作成を行います。それが結果的に経営上の問題点を解決するためのITからのアプローチとなり、後工程を担当するITコンサルタントやシステムエンジニアへの橋渡し作業となるわけです。私のような「コウモリ」は意外と少ないのですが、パソコンやオフィス機器導入相談や、無料ツール活用というようなちょっとした相談から、ERP導入やSCM革新相談までその道の専門家ほどではないにせよ、経営上の問題点を勘案しながらお請けできるので、案外重宝な存在のようです。


もしも、フリーや小規模なコンサル会社の利用をご検討ならば、「経営系ITコンサル」あるいは「IT系なんでも屋」のような観点を足して、コーディネータに「何でも屋もチームに加えなくていいの?」といってみてください。(なんだか宣伝みたいですが・・・)