2019年10月16日水曜日

公共保守党

国会中継は面白くない。興味がない訳ではないが、議論と呼べるような議論もなく、政府与党の提案に対して、野党がひたすら揚げ足取りをし続けるという構図がごく一部のイデオロギッシュな人以外に面白いはずもない。官房長官会見に対する質疑も同様である。思想的にマルキシズムにシンパシーを感じる政治記者が、お決まりの揚げ足取りをするだけである。いちゃもんレベルの揚げ足取りに官房長官が多少イラついているのが苦笑を誘うくらいでさっぱり面白くない。面白くないというのが不謹慎だというならば、低レベルである。現在の状況では。政府与党の政策を別の観点からその政策を再検討し、ブラッシュアップし、場合によっては合理性と説得によって、廃案にする。それが国会と野党の役割であろう。現実にはただ揚げ足取りというプロセスがあるだけで、対案さえ出せないまま、採決されれば強行採決だと文句をいう。言い古されているが、それは時間と税金の無駄遣いである。

「悪夢のような」という形容詞と評価がほぼ確定した民主党政権の3年間の後、2012年から続く安倍内閣である。長くなればツッコミどころは満載になるに決まっている。景気は多少上向いたが、それも大企業中心の事であり、一般生活者には実感が乏しい。20年も少子高齢化対策と言い続けているが、少子化対策は全く効果は出ていない。セットである高齢化対策もひたすら社会保険料がアップするだけで、現役世代を圧迫しているだけである。人生100年時代も年金受給年齢を引き上げる為の怪しげなプロパガンダでしかあるまい。中間層の衰退と格差社会が叫ばれて久しいが、消費税やたばこ税など逆進性の高い増税が目立ち、企業の内部留保が過去最高に積みあがっているにも関わらず、相も変わらずトリクルダウン的な政策が実行されている。また安倍内閣の兄貴分にあたるであろう、小泉内閣の時代に拡大した新自由主義による規制緩和の直撃を受けた氷河期世代も放置のまま、単純労働の外国人を受け入れ、当事者たちからは「棄民」政策と呼ばれていたりもする。安倍内閣で最も評価できるのは外交だが、本質的にアメリカと日本が価値観を共有しているかは怪しいものであるし、韓国に対する対応も、それ自体は正しいと評価できるが、国内保守派のガス抜きにも見える。それでもなお、安倍政権だけが取り得る選択肢に見える。私自身も相変わらず消極的支持である。

日本のような大規模な先進国で、どんな政策にせよ成功することが簡単であるはずはない。佐伯啓思がいう通り「改革狂の時代」である。ひたすら改革と叫び続け、失敗し続ける政府与党。しかし、改革を叫ぶ保守と揚げ足取りしかできない野党という構図では、多少なりとも意味があり、成功する可能性のある改革も「異なる観点からのブラッシュアップ」というステップを踏むことが出来ず、成功はおぼつかないであろう。政府与党も反論に真摯に向き合い宅手も、揚げ足取りでは聞く耳を持つまい。そのうちに「野党の意見は戯言」であると認識されて、自動的に却下されるようになるだろう。否、既にそうなっている。

昨今、特に安保法制騒動以来、「民主主義の機能不全」とか「民主主義の危機」などとマスメディアが騒ぐが、議会制民主主義である我が国で、危機的に機能不全に陥っているのは民主主義ではなく、議会主義の方である。しかも、政権与党によって議会が蔑ろにされているというよりも、議論に耐える反論を野党が出来ないということが機能不全の原因にしか見えない。従って、問題の真因は野党にある。

零細政党を除いて、現在の日本における野党は所謂、旧民主党系の「リベラル」である。
東側世界にシンパシーを感じていたが、総本山たるソヴィエト連邦が崩壊してからは、これまでの主張や信念が否定されたことを受け入れられず、良く言って魂のないゾンビ、悪く言えば、日本の呪い手・社会の破壊者である人々である。その支持者たちを含め、やたらと騒々しいが、もはや議論に値しない。テレビや新聞などのマスメディアや社会学系を中心に大学の中枢に巣くっているが、ソヴィエトという総本山なき司祭や巫女の話など、普通の生活者には届くことはない。WEBがメディアとして発達した現在、一方的に「リベラル」の教義を喧伝し、都合の良いニュースのみを選別するということは不可能となった。ある世代から上に多い「情報弱者」だけが「リベラル」のご託宣を有難がるというのが現状である。米国製のポリティカルコレクトネスやマイノリティ擁護からくる逆差別、欧州製のダイバーシティ信奉など、「リベラル」が持ち込み、日本での定着化を目論む等の心配な動きはあるものの、旧態依然なリベラル系野党を論難する必要はもうない。端的に言って論じる価値もない。

そう考えていくと、真の問題点は「まともな野党の不在」であり、安倍内閣に保守の観点や公正の観点から異議を唱え、対案を出し、議論できる野党の不在である。

例えば「改革主義の保守」などは形容矛盾である。保守というスタンス、或いは構えは、人間理性の限界をわきまえるが故に、長く続いてきたことを無暗に変更しないというところにあるはずである。我々は全知全能ではない。同時に我々は理性だけで行動しているわけではない。情念や習慣というファクターが思いのほか大きいものである。これは18世紀の哲学者ヒュームの議論であるが、保守である以上、そのような人間理性への悲観を伴った懐疑が必要である。

一見消極的なこの考え方は積極的な意味を持つ。例えば、経営学の世界で、自社の強みが簡単には模倣されないことを「模倣困難性」と言う。その模倣困難性を構成する要素の中に「経路依存性」というものがある。これは過去の出来事の順序にその強みが依存している事を示しており、同業他社に簡単に真似されないということである。するとその企業の生き残る確率は当然ながら高くなる。だが、その強みを壊さないためには、社内改革も丁寧に実施する必要がある。なぜなら、何がどことどうつながっているかという因果の連鎖を正確に知ることは困難だからである。これを国家規模に置き換えてみる。例えば、我が国は先進国であり、上位の経済規模を誇る。それらは何らかの強みに起因している。それは労働者の知的レベルの高さ、勤勉さかもしれないし、社会的な同質性かもしれない。しかし、これらの経路依存性を完全に分析し、因果の鎖を全て分類・整理することは不可能である。だからこそ、保守は安易に「改革」を叫ばない。しかし、同時にその社会の柔軟性も回復力(今様で言えばレリジエンス)もある程度信用しているので、漸次的な改善や、必要な改革を拒むものではない。拒むのはガラガラポンの革命や改革と理性万能の全体主義である。

そのような保守の姿勢から考えれば、世界のグローバル化は潮流だとしても、それに徹底的に適応しようとする主義(イズム)であるグローバリズムを政策の根幹に据えるのはナンセンスである。地球という「単一の世界」ではなく、様々な国家や地域が緩やかに交流しつつ存立する「様々な世界」を指向するのが保守である。「様々な世界」を指向するならば、その一つであり、同時に故郷でもある自国の安全と繁栄を指向するのも当然である。自国とは国民のことであるから、その中での極端な不均衡を排し、平等ではないかもしれないが公平・公正を期すのが保守である。或いは「経済的指標」という指標、要するに「もうかりまっか?」のみの単一の指標しかない世界ではなく、これまでの歴史を踏まえた価値を大切し、本来的な意味での価値の多様性を指向するのが保守である。また効果のない改革を排し、時間が掛かっても、意味のある改善を指向するのが保守である。

こうしてみると政権与党である現在の自由民主党は「革新」であり、「リベラル」と位置付けることができるだろう。新自由主義やグローバリズムと保守は全く相容れない。敗戦と占領、戦後の成り行き、そして日本的不徹底によって保守のように見える「革新」である。対米追従は保守ではない。なぜなら、米国は人工国家であり、本質的にはピューリタン的独善に基づく設計主義である。教義が共産主義ではなく、ピューリタニズムというだけであり、その観点ではソヴィエトと大差はない。その独善の極みが「クリントン政権」であり「オバマ政権」であった。(現在はトランプ政権になり、少し揺り戻しているようだが。)リベラル国家に追従する政権が保守なはずはない。現実解としてそれしか道がなかったというのは一定程度に理解できるが、敗戦から70年以上経った今でも対米追従が政策の中心であるような政党が保守であるはずはあるまい。情けないと言っているのではない。アメリカは「リベラル」であるし、それに追従するならば、親米現実主義リベラル政党とは名乗れても、保守政党と名乗る資格はないと言っているだけである。それが欺瞞であることは国民の側も気が付いているが、大多数のまともな国民は親米現実主義以外の選択肢は取らなかった。対抗馬が空想主義的社会主義では信認のしようがない。自民党に灸を据える的な「空気」で社会党(自民連立)や民主党の政権が出来た時も、前者は自らの主張が非現実的であったことを認めたことにより消滅し、後者はそもそも政権担当能力がないことを露呈しただけであった。その結果は「親米現実主義以外はない」という国民の考えを補強しただけであった。

議会主義が機能不全に陥っている我が国に必要なのは与党と議論が可能な、保守の野党であろう。右翼ではない。これまでの歴史・伝統・文化を踏まえ、武田信玄ではないが「人は石垣、人は城」と考えて、国民の幸福の為の施策を丁寧に考え、政権与党の施策に代案を示しつつ議論するそんな政党である。本来的な公共の福祉を保守の立場で尊重すると言換えてもよい。ここでは仮に公共保守党とでも呼んでおこう。日本維新の会があるではないか。という向きもあろうが、人間理性への懐疑がなく、設計主義・改革主義・グローバリズムという点から見れば、やや過激な自民党でしかないため、保守とは呼べない。故に現在はまだ存在しない政党である。

私の考える公共保守党の基本的な立脚点を述べてみよう。4つある。

  • 理性や知性を狂信せず、歴史を重視する
  • 理想は蔑ろにしないが、理想主義は排する
  • 自国(自身)を重視するが故に、他国(他者)を尊重する
  • 公正(フェアネス)を重んじる

「理性や知性を狂信せず、歴史を重視する」というのが最も重要な考え方である。前述のように「国や社会を人為的に設計する」ことが可能であり、しかもそれが良いことと考えるリベラルとは真逆の姿勢である。ある人間が国や社会を人為的に設計した結果は、それがどれほど善意に基づいていても上手くいくことはない。その最も分かりやすい例はソヴィエト連邦であり、ドイツ第三帝国であり、文革中のシナである。人間が天国を作ろうとすると必ず地獄を作ってしまうものである。人間の力を過信しない。常に歴史を参照しつつ、修正を加えていく。この姿勢に違和感があるならばその人は保守ではない。

「理想は蔑ろにしないが、理想主義は排する」ことは、大人であることを要求するものである。理想はコンパスに過ぎないことを理解しており、到達しうる「場所」ではない。個人の理想は実現することもあるが、国家や社会の理想はあくまで指針であり、実現するようなものでないことを理解している必要がある。言葉狩りから始まる全体主義(ファシズム)は理想主義から出てくるものである。

「自国(自身)を重視するが故に、他国(他者)を尊重する」というのは、個々別々であることが考え方の前提にあるが故である。自国には自国の方向性があり、守るべき価値があり、それは他国に優先すると考えるため、相手もそのように考えることを当然とする態度の事である。相互性を重視するが故に、多様性を結果として尊重することになる。多様性それ自体を目的していないことがポイントである。だからこそ、二言目には「ダイバーシティ」と言いながら、異論を許さないリベラルと、これもまた真逆である。

「公正(フェアネス)を重んじる」ことは、ともすれば現実主義から虚無主義に落ち込み易いことを自覚し、自分自身をその暗黒面に落とさないための歯止めとなる価値感である。目的と手段の倒錯を回避するには、一つの「公正という価値」を価値として尊重しなくてはならない。保守の立場は現実主義でもある。目の前の現実に対応するために、プラグマティックにマキアヴェリアンとして立ち振る舞うこともあるであろう。だがその際に見失ってはいけない価値があるべきである。さもなくば、手段が目的化してしまう。「ライオンの力と狐の狡知を行使する」時、何のためにという目的が必要である。その目的が「公正」であるかどうか、或いは「公正さを増すこと」に役立つかという価値判断が、暗黒面への堕落をかろうじてつなぎとめることができる。また公正は公平につながる概念である。公平さは極端さを排する。従って、富の極端な偏在は是正されるべきとも考えるのである。

このような立脚点から、国家の役割である「安全保障」「経済」を政策化し、公共の福祉を向上することを考える。それが公共保守党、即ち、自民党に対する野党であるべきであろう。そして政権政党としての実力を蓄積していくのである。権力を志向しない政党など不健全である。確かな野党に甘んじるのは日本共産党に任せておいて、政権を担うにたる政党になることを目指すのである。自由民主党を「親米現実主義」「リベラル」と位置付けて、その反意語としての保守政党があるべきである。

少なくともオールドメディアの外にはこうした動きの萌芽は見られる。グローバリズムとリベラリズムへの批判、新自由主義への継承とケインズ主義の見直し、それでいて、議会制民主主義の尊重、憲法の見直し、現実的平和主義のような基本的価値は既存の与党と共有できるような動きである。それらが一つの潮流となることを願い、蟷螂之斧に過ぎないが、私なりにその役に立ちたいと考えるのである。

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