2017年5月10日水曜日

フェイク・コンスティテューション

■帝国憲法と日本国憲法
日本国憲法の改正を政治日程に乗せることを安倍首相が発表した。「9条1項・2項を保持した上での3項の追加」という原理原則から言えば矛盾のある内容ではあるが、まずは明言したことを是としたい。

大日本帝国憲法も日本国憲法もそれぞれの歴史的状況から制定(後者は「制定」とは言いかねるが)された。大日本帝国憲法(以下、帝国憲法)はむき出しの帝国主義時代に「喰われるよりも喰う側の列強」として認められるためと、身分制度が崩壊した故に兵役に参加することとなった臣民(日本国民)の権利意識への対応のためという二点から制定された。参照したのはプロイセンの憲法だが、ベルリン大学の学者より「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」とのアドバイスを受け、明治22年、立憲君主制の近代憲法として発布された。


近頃はよく知られはじめたが、 日本国憲法は1946年にダグラス・マッカーサーにより「マッカーサー草案」として下書きされ、GHQ(アメリカ)の意向により日本側の自主的な改正という体裁をとって昭和22年に発布された。江藤淳の研究に詳しいが、日本国憲法が訳文調なのはこのためである。敢えて断言するが、日本国憲法は敗戦と軍事占領を背景としており、米国を中心したUN(連合国・国連)の懲罰として主権の一部を恒久的に停止することを目的とした憲法である。敗戦直後の日本政府にせいぜいできたことは 'We, Japanese people...' を「我々、日本人民(people)」と訳さず、「我々、日本国民」と訳したくらいである。人民という言葉遣いは共和主義・共産主義の言葉遣いである。
ついでに記すと、国民は英語ではnationである。また立憲君主国の場合は臣民であり、これは英語ではsubjectである。

何にせよ「日本」という国を永続的敗戦国という位置に置くことが日本国憲法の主眼であったことは間違いない。また当時のマッカーサーが持っていた無邪気な理想主義を実現し、日本における「キリスト」となるという願望が反映されているかも知れぬ。なお、この手の理想主義の元祖はウッドロー・ウィルソン米国大統領であり、彼自身も人生の後半は「キリスト」として振舞った。そして後年マッカーサーが「日本の戦争は自衛であった」と認めるに至ったように、国際連盟を創設するも米国は参加できず、国際連盟憲章に人種差別の禁止を日本が提案するとそれを却下するなど、理想主義者でありながら、ご都合主義者で合ったことも共通している。

話を戻そう。その後日本国憲法は70年以上も改正されずに生き残り、おかしな表現だが一定の「伝統」を保持するに至った。帝国憲法と同様に「不磨の大典」とされたのである。前者は明治帝を後者は米国を権威として。

■権威と権力の分立の伝統
なぜ、不磨の大典化するのだろうか。ベルリン大学教授のアドバイスに従って、我が国の歴史から考えてみる。
我が国は極めて珍しいことに「権威と権力の分離」がある種の伝統となっている。「政教分離」もこの伝統に従って、欧州よりもずっと容易かつ早期になされた。

まず「権威と権力の分離」だが、これは平安時代に藤原家の権力の簒奪から始まり、鎌倉時代に公家(貴族)から権力が武家に移行しても、権威は天皇家・権力は世俗政権という形が我が国の伝統になった。この形式は現在でも続いているので1000年程度の歴史があることになる。「権威と権力の分離」が確立すると同時に所謂「律令制」は崩壊し、権威側に属する「律令」それ自体は手をつけることなく、(それとは無関係に)権力側からの民法・刑法・軍法の一種である「式目(御成敗式目)」が鎌倉幕府の手により制定され、権威とは無関係に運用された。これは武家のみを対象としていたが、鎌倉幕府崩壊以降も有効でありつづけ江戸幕府の制定した武家諸法度もその上に一部改定の上で足されたにすぎない。民間(農工商)は不成文の慣習法であり、こちらも時代とともに修正され続けた。
その意味で英国式の慣習法の積み重ねとして実際の法律は機能し、権威者が制定した憲法(律令)は棚上げにされているというのが我が国の伝統的な図式と言えるかも知れない。

そうだとすると、現行憲法の運用は実に日本的伝統に適っているとも言える。権威者(ダグラス・マッカーサー元帥)が制定した憲法はとりあえず棚上げにしておいて、現実は権力者(自民党)が適宜やって行きましょうという図式である。実際、律令それ自体が(郡県制や王土主義など)全く機能していなくとも、象徴的に明治維新まで続いて(太政官制など)も誰も困らないというのが日本の伝統的行き方なわけである。

■日本国憲法の出自のいかがわしさ
しかし「伝統に沿っているから現状の姿でいいではないか」とはならない。理由は二つある。まず近代国家としてのコンスティテューション(国体・憲法・国の在り方)を諸外国に認めてもらうことから、近代日本は出発しているため、どのような原理原則の国なのかをある程度明示しなくては諸外国に誤解を与えることになる。英国のようにいち早く近代国家となり、覇権国家となった国ならば、その歴史が憲法(コンスティテューション)の代替になる。故に英国には成文憲法はない。
しかし日本はそのような国ではなく近代国家としては後発国である。明治期に近代国家としての承認のためにコンスティテューションを明示し、それを運用するしてみせる必要があった国である。それ故に成文憲法は諸外国へのアピールとして必要であるし、その原理原則と行動が異なると(憲法9条1項・2項と自衛隊の存在など)諸外国からは不信感をもたれるであろう。芦田修正などの微妙な話は外国には通じるはずがないし、ある種の詐術である(仕方なかった面はあるが)。極端に言うと「民主主義人民共和国」と名乗っていながら、民主主義でもなければ、共和国でもないというような国家と同類に見られてしまう。


二つ目は「米国という権威者に保証されている国」という日本と日本人を思考停止に追いやる元凶であることである。江藤淳はこれを「ごっこの世界」と呼んだが、まさにそのとおりである。日本国憲法は「戦争に負けたから戦争が(米国によって)禁止された国」であるという準主権国家、言葉を選ばずに言えば「米国の属国」であることに疑問を抱かせないためのシステムの一部である。我が国は1945年から1952年の7年間、米国の軍事占領下にあった。所謂、オキュパイド・ジャパンだ。
国際法上軍事占領下にあり、主権が停止されている国で「憲法改正」などできるはずはない。改正したとしても、それは占領している国の強制以外の何者でもありはしない。従って押付けられた憲法どころか「偽憲法」である。ちょうどヴィシー政権下のフランス憲法のようなものだ。だからこそ自民党の党是に「自主憲法制定」というものがあるのである。あくまでも占領政策の一環としての「憲法改正」であり、私の見解では法的には無効である。

だが、米国を権威者として成立してしまった日本国憲法を頂いて70年も経過してしまい、病巣は日本人の血肉化してしまったように見える。だが、病巣は病巣である。米国という庇護者の下の「ごっこ遊びの世界」から抜け出して、自分の運命を自分で決める大人の当たり前の国に私はしたいと思う。社畜だブラック企業だというような、自己決定ができず上位者に唯々諾々と従うスタンスの大元が実はこの「日本国憲法」にあるのではないかとさえおもう。もはや独立してやって行けるだけの経験とスキルを持ったサラリーマンが「いつかは独立」と言いながら定年を迎えてしまうようなことになってほしくはないし、なりたくもない。


まずは「不磨の大典」化した「偽憲法(フェイク・コンスティテューション)」をまずは1行でも変えることに集中すべきであろう。米国という宗主国の権威を否定し、まともな国にするための第一歩である。

2017年5月1日月曜日

生命の法則

'In Italy for 30 years under the Borgias they had warfare, terror, murder, and bloodshed, but they produced Michelangelo, Leonardo da Vinci, and the Renaissance. In Switzerland they had brotherly love - they had 500 years of democracy and peace, and what did that produce? The cuckoo clock.  'The Third Man'

「ボルジア家支配のイタリアでの30年間は戦争、テロ、殺人、流血に満ちていたが、結局はミケランジェロ、ダヴィンチ、ルネサンスを生んだ。スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」(第三の男)

男性の原型はなんだろうか。勿論、女性である。女性を原型にして突然変異のなかで男性が造られたのである。その証拠に乳首もあれば(無用である)、睾丸には溶接したようなラインがある。ペニスだってクリトリスの発達型に過ぎない。私の妄想ではない。生物学的にそうなのだ。ある種の魚(タイの類など)では、すべて雌として生まれるが、環境が悪くなると、そのうち最大・最強の雌が「性転換」するそうである(無論逆パターンの例外はある)。要するに環境への変化への対応として、雄、すなわち男性が出てくるに過ぎない。その意味で、少なくとも人類の男性は生物学的には「手段」に過ぎない。



男性の原型が女性だとして、人間の男性のそもそもの社会的役割(生物学的には自明だ)はなんだろうか。男性は平均的に女性よりも三割程度筋肉量があるそうだ。そんな医学的な知見を持ち出さなくとも、一般に女性より腕力とスピードに優れ、背が高く、空間認識力に優れる(それ以外はたいてい女性の方が能力的に上)。判りきっていることだが、これは「狩人」「戦士」に向く身体的特長である。要するにそもそもは「女性と子供」を養い、守るというのがその社会的な役割の原型である。少なくとも100万年の人類史の9割ぐらいをこの役割でまかなってきたはずであり、我々自身はその環境へ適用した生物学的特徴を未だに残している。

最近知ったのだがマーチン・ファン・クレフェルトというオランダ生まれのイスラエルの学者がいる。歴史学や地政学、戦略論の泰斗なのだが、彼の言葉に「生命の法則」というものがあるそうだ。それはシンプルな法則である。「男は戦い、女は戦士を愛する。それが守られない国家は衰退する。」というものである。この場合の衰退とは「少子化」のことである。この戦士の法則をないがしろにする国は端的に少子化が進むそうだ。クレフェルトによれば生命の法則を忌避する国の文化には特徴がある。それは「戦争の忌避」「性的マイノリティの擁護」「フェミニズムの台頭」「銃規制」「移民の受け入れ」だそうである。これだけ読めば暴論のように読めるし、「リベラル」への攻撃としか見えないかもしれない。

しかしどうやらこれは高い蓋然性で科学的に正しそうである。古代国家であれ現代国家であれ、その活力のソースは「生命としての基本」に立脚している。柔弱になった国家はアテネであれ、ローマであれ、であれ、徳川体制であれ衰退し滅んでいる。倫理善悪は一旦置けば「その地域や国家の文化として暴力を忌避し始めることは生命力の衰退のサイン」であることは間違いがないようだ。

これはなかなか厳しい指摘である。少なくともわが国における戦後世代の教育や倫理観を真っ向から否定するものだからだ。政治学の観点は大別すると3つある。「リアリズム」「リベラリズム」「コントラクティヴィズム」がそれである。我々は「リベラリズム」の観点に基づいた教育をこれまで受けてきている。「リベラルな価値観、自由市場、国際制度機関の拡大によって国家間の協力関係が増加する」というような価値観である。その奇妙な理想主義は勿論米国によってもたらされたものであるが、GHQによる情報統制とは別に、総力戦の敗戦後という価値観の混乱との相乗効果もあり、日本という国家の表向きのドグマとなった。

そして日本とは異なる経緯と事情により、西欧諸国や米国で時折盛り上がるムーブメントとしてのフェミニズムやマイノリティ開放、近くはヘイトスピーチの禁止などの影響を受けつつ、また戦前の贖罪意識、或いは勝ち馬に乗る事大主義を本音とした偽善の横行により、リベラル的な主張こそ正しいというような正当性を持つに至った。

さらに、冷戦の崩壊による「歴史の終わり?」的自由主義陣営の勝利による永久平和の達成という壮大な勘違いや、グローバリズムという地域や多様性をその基礎としながらも、結果的に一色に染めるという特殊な擬似全体主義の横行により、リベラリズムはその力を増して行った。しかし、その極点でBrexitやトランプ大統領が登場した。正確に言えば「リベラル・グローバリズム」は「仮面をかぶった帝国主義(Disguised Imperialism)」に他ならないというのが目下の私の結論である。それを主導してきた米・英が自家中毒に陥ってそれに耐えられなくなったというのが現在起きていることの意味ではなかろうか。

米ソ対立が終焉し、ちょっとした平和の宴の後、明らかになったのは「文明の衝突」というむき出しの帝国主義であり、しかもかつて文明国同士で取り決めた「戦のルール」など一切守らないテロリストや「超限戦」を標榜するクレイジーな大国の台頭である。要するにリベラリズムは失敗したのである。「コントラクティヴィズム 」はその失敗に対するリベラル陣営からの楽観的な言い訳に過ぎないと私は思う。

さて、そうであれば結論は簡単である。我々の教育のベースにあった「リベラリズム」は誤りである。つまり教育そのものが失敗だったのである。若い世代は既に気がついており、マスメディアが流す旧態依然としたリベラリズムや学校教育でのリベラリズムをほとんど信じていない。2016年の都知事選で明らかになったように「リベラリズム」という「ドリーマー」はもはや無効なのである。すると立脚すべき観点は「リアリズム」しかない。

リアリズムは要するに「利己主義的国家が権力と安全保障をめぐって常に競い合う」ことを自明のこととして受け入れ、その中で「不肖の器」たる兵を簡単に動かすことなく、パワーバランスをとって行く「苦しく厳しい」ものである。だが、現実が適者生存のダーウィニズムの理論で動いている以上、ここから目を背けること自体が単なる逃避であり、グローバル・リベラリズムとは壮大な偽善だったのだろう。

利己的な遺伝子の乗り物(ドーキンス)でしかない我々の本性は競争、つまり競い、争うことである。そして活力のある国家とは結局のところ「野蛮である」ものである。野蛮な活力のある相手に対応しながら生き残る戦略はこちらも「狡猾かつ野蛮」であることしかない。それは生物学的には男性の役割である。リベラリズムの失敗が明らかになった今、リアリズムに基づいた「狡猾な野蛮」さが我が国、或いは文明世界を守るために必要な構えであろう。

誤解を避けるために最後に記すが、戦前の無謀な帝国主義日本を復活せよとか、戦争せよとか主張している訳ではない。そうではなくて、野蛮であることを忘れ、戦士たることを忌避する文明・国家は衰退すると言っているだけである。日本は日本の生存と世界の平和のために「狡猾な野蛮」さを身に着けろということである。それは決して「(日本を)取り戻せ」ではない。あたかも戦国期から徳川初期の武士のように真摯かつ知的、そして平和的でありつつも常に帯刀し、稽古を怠らないスタンスを身に付けよという意味である。

また、女性の社会進出を否定するものでもない。ただ、男性並に働きたくはなく、育児や家庭に重きを置いたり、専念したい女性にはそうするだけの仕組みを用意すべきと思うだけだ。男性並みに働いて、男性以上に所得を得、或いは国家を指導する女性は尊重されるべきだし、それは男女は関係ない。だからと言って、パートや専業主婦を侮蔑する理由にはなるまい。そうではなくて国家全体として「生命の法則」に逆らうと衰退するという厳然たる事実があるということである。


「世の中が不穏であることから逃避する」これは最悪の選択肢である。皆忘れているが、「座して死を待つ」以外の何物でもない。