2017年8月15日火曜日

2017年の敗戦の日、或いは保守本流への警告

毎年のことだが、8月15日が近づくとあちこちで「あの戦争はなんだったのか?」という問いが、メディアを賑わす。勿論、議論のレベル感は様々であるが、いい加減飽きてきて低調になるどころか、戦後民主主義の呪縛が薄れたこの10年、さらに百家争鳴の度を増しているように見える。

新聞テレビを中心にした既存のメディアとネットを中心とした新興メディアはお互いを嘲り、罵りあいながら大きく分断している。当然ではあるがこれまでの慣習とビジネスに縛られ、また、権力を監視するという名の権力から生ずる既得権益の構造が出来上がっている既存メディアは強く戦後の「タブー」に縛られ、いわゆる「左翼的な」論調であり、その縛りが少ない新興メディアはむしろ「右翼的・愛国的」な論調が多い。むろん、個人が発信できるネットメディアは極左から極右、或いはおそらく正常な精神ではないようなものまで、玉石混交ではあるものの、印象としては述べた通りである。(統計を取ったわけではないので正確なところはわからないが)

ネット言論においては「アンチ安倍」vs「親安倍」という構図が、「左翼」vs「右翼」、言い換えれば「革新・進歩主義」vs「保守・伝統主義」を代表しているといっても言い過ぎではあるまい。
さて、終戦記念日である。この言い方もある種の欺瞞があるので本稿では以下「敗戦の日」ということにしよう。勿論、9月2日の降伏文書署名など分かった上での話である。

72年目の今日、私が問いたいのは「保守」と呼ばれる人々のスタンスである。はっきり言って戦後一世を風靡した「左翼」思想はもはや破綻している。影響力としては最盛期を100とすれば1-5程度であろう。先日の東京都知事選挙を思い出せば、その「左翼思想」はもはやたんなるノスタルジでしかないことがよくわかった。鳥越俊太郎が何を喋ろうが、ボケ老人の寝言以上には受け入れられることはなかった。その意味で鳥越の失態というか、痴態は、戦後左翼にふさわしい断末魔、或いは断末魔さえ意識できない「死」を象徴するものであった。

だから、ここから先いわゆる「左翼」は批判の対象としては登場しない。ここから先に左翼と呼ぶのは筋金入りの共産主義者若しくは社会主義者のことである。もはや破綻寸前でジリ貧な彼らはその影響力を大幅に低減させている。今後、残党は先鋭化し、先祖返りしていくだろう。その意味では、騒々しささえ我慢すればよい。だがしかし、問題は「保守」である。なぜならば現代の保守本流というものが私には「保守」の名に値しないのではないかと考えている。

2012年12月安倍首相は「価値観外交」という言葉を使った。日本は「自由と民主主義」を中心としたイデオロギーを共有する国と「価値観を共有している」というわけだ。ここで言う国の代表格がアメリカであることは言うまでもない。占領の終わった1952年から、米国への消極的追従を「外交」と呼んでいた日本は、アメリカを前提としない外交を考えることができない。それゆえ「価値観外交」という言葉は「アメリカと価値観を共有する」という意味でしかない。少なくとも「アメリカシンパ」の国々と仲良くしようという意味である。

それから5年、依然として日本の政治状況はあまり変化がない。ということは「価値観外交」は続いているということだろう。現在の政治的状況への対処の手段としては「価値観外交」はわからないことはない。だが、これは大きな問題を孕んでいると私は思う。

アメリカの価値観の核にあるものは「自由と民主主義の普遍性を信じる」ことと「普遍であるがゆえにそれを世界に広める使命があると信じる」ことである。平たく言えば「スターウォーズ」の価値観である。悪の帝国に正義の「自由と民主主義の」戦士が立ち向かい、最後は勝利するというアレである。単純かもしれない。しかしフランス革命の普遍主義を引き継いだアメリカの普遍主義は、戦争をも辞さないという点において、相当に真剣かつ深刻なものだ。そのような歴史的使命があると自覚する国家の価値観というのは相当に特殊である。また、そのように人類が進歩していくという価値観であり、その観点ではアメリカは左翼国家だということができる。さらに人工的、進歩主義的、普遍主義的であったソ連の崩壊にともない、アメリカは世界で最も左翼的な国家の位置に来たということもできる。

翻って、わが日本はどうだろうか。「自由と民主主義」を普遍、即ち、真理であり、これを世界に広げることが正義であると信じているだろうか。私には決してそうは思えない。「自由と民主主義」は伝統的で土着的な「日本的なもの」という土台の上に刺さった旗程度のものだろう。とりあえず、それが正しいということになっているが、そんなものは時間の流れの中で差し替えられる程度のものだ。ちょうど1945年8月15日に「軍国主義」の旗が「自由と民主主義」の旗に差し替えられたように。


保守本流の人々は「そんなことわかっている」というかもしれない。それならばよい。だが「手段」と「目的」の混同の危険はいつだってあるものだ。「日本を取り戻す」ことを目的とし、「対米追従」を手段としていたのに、いつの間にか「対米追従」が主目的になり、「日本を取り戻す」が選挙民から票を集める手段になりかねない。保守を名乗る人々は今一度、何を保守するのかを考えたほうがいい。

2017年8月1日火曜日

「民主主義」というマジックワードの超克

戦前における「国体護持」と同様に、戦後は「民主主義」がマジックワードとして流通している。今風に言えばバズワードと言ってもいい。政治的に誰かを非難する時には右も左も「民主主義の破壊だ!」「民主主義を根底から覆す…」云々。しかし、これらの言葉は没論理である。正直に言えば「吠え声」と変わらない。なぜなら「民主主義」という言葉の定義が全く共有されていないので、「民主主義に照らして、XXXXだ!」と主張しても、論理(ロジック)が意味をなさない。


見たところ、職業的な政治家はプロフェッショナルらしく、このことをちゃんと自覚している。選挙制度に基づく政治の本質は、被統治者である国民の政策への関心が下がるほど、カタルシスを目的としたステージショウ、はっきり言えば「見世物」であり、見世物である以上、論理よりも印象を操作するほうが、ずっと効率的に選挙権をもつ国民に訴えるだろう。少なくとも小泉旋風、劇場型政治といわれてからこっちは、職業的な政治家はそれを自覚的に行っているだろう。そう思えば、この「戦後民主主義」体制下の政治家も「まともな国家運営をしながら人気取りもする」という点でなかなか大変である。ついつい同情してしまうこともある。

民主主義とは何か?という問いそれ自体は非常に重要ではある。しかしその重要性はあるべき政治体制の模索のためという本来的なものとして、多くの人に意識されているわけではない。そうではなくて、単なる前提なしの「正義」の源泉として、平たく言えば正当化のための錦の御旗として利用されるために問われることがほとんどである。やや空しいが仕方がない。日本を含む先進国においては、「隣人愛(博愛)」は知らないが、「自由と平等」はかなりの程度達成してしまっており、また、「権力vs市民社会」というような構図は意味を失っているため、「民主主義」を問うことの意味はその中に住む国民にとってほぼ無意味である。

大雑把に構図化してみると、元々キリスト教的な進歩史観、終末思想、つまり「唯一の神が何らかの目的をもってこの世を作り、いずれその目的は達成され、歴史は終わる」という観念を持たない我々日本人は、様々な大陸の思想に影響を受けながらも、ある種独自の価値観のなかで江戸時代まで生きてきた。それは「大目標を持たない」という点で恐るべき停滞の時代だったかもしれないが、ともかくも西洋的(=キリスト教的)なものとは異質のものとして繁栄してきた。しかし、幕末に西洋文明と対峙することにより、己の無力さを自覚するとともに、西洋的価値観を「正しいもの」として取り込んでしまった。平たく言えば、西洋にシビれてしまった。さらに新興の西洋化国家の帰結として大東亜・太平洋戦争に突入し、壊滅的な敗戦を経験した。それ以降、日本の諸悪の根源は「民主化=西洋化が不足していること」と認識されるようになった。丸山真男的な「(欧米は進んでいるのに)日本は遅れている」という考え方である。

だが、「民主化=欧米化」が無条件に礼賛されるべきという発想はソヴィエト連邦の崩壊以降、加速度的に意味を失っている。そのことは別段インテリ層でなくとも「素朴な庶民」でさえ理解している。表現がうまくできないだけである。なぜならば「自由・平等・博愛」の極点、つまり行き着く先のひとつが共産主義であることは誰にでも理解できるからである。資本主義vs共産主義というのは、決して民主主義vs全体主義ではなく、(自由を強調した)民主主義vs(平等を強調した)民主主義ということだったのだ。

このあたりから「資本主義の勝利」というような「祭りの季節」が過ぎると、もはや民主主義それ自体の意味を問うことがなくなっていく。そしてそのことは不安を生み出す。それはこういうことである。「平等を指向すると社会主義・共産主義に行き着くが、それは歴史によって否定された。しかし、残った自由を志向する資本主義的自由主義は多くの格差を生み出し、我々も貧乏のままである。それでよいのだろうか?」と。

少なくとももはや「民主化(=西欧化)が不足している」という議論はゾンビである。ただ、マスメディアを中心とした無意味かつ有害な「お作法」でしかない。大切なことは「民主化が足りない!」とか「民主主義の危機だ!」という戯言に接したときに「具体的にどういうこと?」と問うことである。非常に地味ではあるが、これをすることでマジックワードは崩壊する。AIだIoTだと言われたときに、具体的に何ができるようになるの?と聞き返せばたいていの営業やコンサルは「あわわわわ」となるのと同じことである。その結果、正しいことや向かうべき未来がますます見えなくなるだろう。そしてますます不安になるだろう。するとおそらく気が付くだろう。我々は「退屈」しているだけなのだと。


その「退屈」の名はニヒリズムという。すべてはその自覚から始めるしかないと私は考える。