2016年12月27日火曜日

ブログを(再び)はじめました。

調べたり、考えたりしたことをまとめない限り、それは「学」にならないというのはイタリアの外交官にして思想家のマキアヴェリの言葉。

私は単なる一介の日本のビジネスマン、夫、あるいは父親日々生活をしているわけですが、それでも色々なことを見聞したり、考えたりすることがあります。世間の職業的な評論家や学者には見識では及びもつかないことは百も承知ではありますが、市井の生活者の視点も何かの役に立つことはあるだろうと考え、ブログを再開することにしました。

ここでは主として「思想・政治・倫理・社会評論」のカテゴリで記事をポストしていきます。私の「思想的傾向」を知らずに不快になった!というようなクレームを回避するために、基本的なバックボーンを記載しておきます。

大雑把に政治的な左右を問われれば、「右」よりでしょうね。といって日本万歳的軍国主義者でもないです。しかし、これまでの所謂日本の「革新」政党や「リベラル」なマスメディアがあまりにも支離滅裂なので、到底「左」には分類されたくないというのが本音ですね。

また、経済的には「左」よりでしょう。というのは「グローバリズム」「新自由主義」「構造改革」のようなものを手放しで礼賛できないからです。どちらかと言えば「あまりの経済的格差は是正されるべき」と考える方です。とはいえ、その範囲は日本と日本人の中に限定されるという風に考えます。

宗教的にはまあ「日本教徒」なのでしょう。神社に初詣に行き、お寺に墓参りに行って、クリスマスにケーキを食べるベタな日本人なので、「日本教徒」以外ではありませんね。入国審査の際のReligionの項目にはShintoism(神道)と書きますが、曹洞宗の檀家ですし、まあ便宜的なものです。

世代としては1975年生まれなので団塊ジュニアからは一年遅れの氷河期世代です。受験競争はそこそこ大変でしたが、就職活動に異様に苦労した世代です。200社資料請求(古いですね)して、40社廻って、やっと内定を獲得したというような時代でした。就職できたのは幸運以外の何者でもありませんが。

商売はIT屋です。ユーザ系IT企業からキャリアをスタートし、外資系コンサルファーム、人材紹介、製造業内ITベンダと渡り歩いてきましたが、基本的には「業務&ITコンサルタント」と名乗って仕事をしています。(目下、新商品の企画・営業・マーケ屋になりつつありますが・・・去年まではSE兼コンサル業でしたが)

冒頭にマキアヴェリの言葉を紹介しましたが、彼にしても本職の思想家ではなかったわけですが、不滅の「君主論」を残したわけなので、遠く及ばずともその真似事ぐらいはしてみたいというのが、ブログを書く動機です。


まとまった期間ブログを書くのは10年ぶりになりますが、よろしくお付き合いください。

何を反省するのかという問い

1945年の大東亜戦争の敗北、そこから続く1952年までのGHQによる軍事占領、そして戦後の経済復興、バブル期、そして今日の長期停滞。少し前の絶望感や閉塞感は少し和らいだものの、相変わらず私を含めた多くの日本人はある種の「停滞と諦観」の中を漂っているように思える。具体的には自分が置かれた状況、たとえば賃金、たとえば承認欲求等が、大なり小なり好転することはないという慢性的なペシミズムの中にいるようなことだ。

他方、いわゆる「グローバリズム」がバズワードを超えて、ブレグジットやトランプ新大統領の誕生のような、それに対する反動の動きが出てきたとはいえ、 ひとつのイデオロギーとして字義通り地球全体を覆っている。そこには様々な観点で問題点を見出すことができるが、殊、日本においては経済ジャーナリズムを中心に相変わらず「閉鎖的」「語学力の不足」「構造改革の不足」が叫ばれ、あげくに発展性のない特殊化した閉鎖系の世界としての「ガラパゴス」というような評価がなされている。そのことがただでさえ自分を過小評価する多くの日本人にとって、自信を掘り崩す結果となり、そのペシミズムを強化しているのではなかろうか。

実際に多くの日本人は語学ができない。語学といってもここでは英語のことであるが、近年急速に発達したSNSにおいても、日本語圏での閉鎖系でのコミュニケーションとなり、実際に海外において日本がどのように評価され(それは決して低い評価でないことが多い)、どのように見られているかが日本人には伝わることがなく、ペシミズムのフィードバック・ループの中に落ち込むことを散見する。

「日本的経営の破綻やブラック企業の横行」「少子高齢化と長期需要不足によるデフレーション」 「イノベーションの不足やマネタイズの失敗」などの問題に集約される「日本的な問題」がここ20年ぐらいのニューストレンドとなっている。ジャーナリズムそれ自体の問題はあるにせよ、これほど長く同一の問題が世の中に流通し、しかもそれが一向に解決しないにもかかわらず「グローバル化と多様性」をその処方箋として叫ばれ続け、小泉改革と金融ビッグバン、労働規制の緩和、TPP参加検討、累進課税の緩和などの文字通り構造的改革を継続してきたにもかかわらず、あまり事態が好転しているようには思えない。

私は一介のビジネスマンに過ぎない。世界経済を精緻に論じたり、金融工学を解説したりする力はないし、またその意図もない。ただ、ビジネスの現場で感じ取ることや、社会人として見聞すること、また多少の読書などから、自分なりにこのペシミズムに対してジャーナリズムが喧伝する処方箋以外の処方を考察してみたいと思う。答えを出すというようなことはできなくとも、ジャーナリズムや評論家とは異なる観点で、そもそも何が問題なのかという「問い」を立てることぐらいはできるかも知れない。

大雑把にいって、「日本的経営の破綻やブラック企業の横行」「少子高齢化と長期需要不足によるデフレーション」 「イノベーションの不足やマネタイズの失敗」という問題は、新自由主義的政策による構造改革によって、実体経済から自立した金融市場の発達による企業活動の阻害(長期的投資の後退と短期的投機の発達)、所得の不平等な再分配から来る一般的な社会的余裕の欠如、グローバル成功企業や成功したと見做されている者との比較からくる人々の自己不全感と言い替えてもいいだろう。単純化すると、「不平等で余裕のない状態」である。これらの構造的な経済問題や社会問題はそれぞれの専門家に任せるとして、ここで着目したいのは、「不平等で余裕のない状態」に対して、一般の日本人や日本の組織がどのように振舞い、それがどのような結果を生むのかである。

一般に、逆境の時に人はその本性を見せるという。おそらくこれは集団に当てはめても同じであろう。というよりも、人々が集団になり、最大公約数的になったときにその集団の本性というべきものが見えるように思う。そしてその「逆境の際の振る舞い」がどのような結果をもたらす可能性があるのかという事を考察するために、過去の危機的状況を振り返ることも無益なことではあるまい。近代において日本の最大の危機が太平洋戦争(大東亜戦争)であり、日本の近代的組織の嚆矢であり、その最大の物が帝国陸海軍であったことは間違いない。

近年、1984年に発表された『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』という本が再刊され、ビジネスマン界隈で話題となった。この本は組織論的、戦術的な側面から帝国陸海軍の失敗を研究したもので、さまざまなケーススタディの後、「組織的学習に失敗したため、同じ失敗を繰り返す結果となった」というのが結論である。ではそもそも、なぜ組織的学習ができなかったのか、あるいは破滅に向かって突き進むことを知りながら、それを食い止め得なかったのかという考察が個々のケーススタディではある程度追求されているものの、書籍の趣旨からすれば当然なのだが、あまりにも組織論によりすぎているように感じた。
それならば「組織の形」、たとえば機能別とか事業部制、あるいはマトリックス型に変換さえすればそれが防げたのかと考えると、そうとは思えない。組織論的にこの問題を捉えることの限界であろうし、またアカデミックな人々による研究の限界点でもあるように思う。もちろん、一般の(市井の、あるいは凡百のと言い換えてもいいが)人々からは出てこない、精緻な研究に基づいたマクロ的な観点での研究結果が無意味といっている訳ではない。しかし、その書籍を読むであろう我々のような市井の一般人には「へえ、そうか」という言葉は出てきても、実生活に引き付けて考えたり、参考にしたりすることが難しい。

そこで、もう少しミクロな観点から、帝国陸海軍における失敗を眺め、それを現代日本を生きている一介のビジネスマンが体験するような出来事と比較しつつ「なぜそうなるのか?」という問いを立ててみたい。これは山本七平が「空気の研究」などで試みたことの極小版であるかもしれないが、山本七平がそれをあらわした1980年代から、何が変わり、何が変わっていないのか、そしてそこから参考になることはないのかという点から見ても意味のないことではあるまい。

別の観点として、普通に生活しているだけでも、現代日本は「思想の転換」が起きているように思える。ある種のイデオロギーが崩壊しつつあり、しかしそれに変わる受け皿としてのイデオロギーが見つからないという風に私には見える。特にインターネットによる影響は非常に大きく、ネット空間の影響が実社会に強く作用していることは肌身で感じ取ることができる。その中で、あえて「あの戦争に対する本当の反省とはなにか」という古いが、未だに社会的な意義のある問いを考えてみたい。

なぜなら、社会的ばバッシングやネットでの「炎上」につながる原因として、「あの戦争をどう考えるか」があるからだ。つまり、未だに人々を強く拘束する何かがあるということだろう。それは普通に考えると建前と本音が大きく分離している状況であり、あるいはタブーが強く作用していることに起因しているだろう。そしてタブーとは「見ないように見ないように」している何かがあるということである。そう考えると「一億総懺悔」といわれた「反省」とは何だったのだろうかと考えるのは私一人ではあるまい。反省とは「自分のしてきた言動を省みて、その可否を改めて考えること(デジタル大辞泉)」であるという。ならばそろそろ、「一億層懺悔」という「反省」を反省し、戦後を反省してみるということが必要なのではないだろうか。その材料として、帝国陸海軍の時代から何が変わり何が変わっていないのかを改めて「省みる」ことも無益ではあるまい。