ラベル 飛行機 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 飛行機 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年5月28日木曜日

SAAB J-35J ドラケン

プラモデル制作記です。

粗製乱造第三弾、スウェーデン空軍のドラケンです。ダブルデルタ翼が特徴的な迎撃機ですね。エアブラシの練習として、シャドー吹きによるグラデーション表現と、メッキシルバーの塗装の実験というのが、今回のテーマです。今回も組んで塗るだけです。
そういえば、新谷かおるの「エリア88」でも出てきましたね。ドラケン。だいぶ古い話ですが。イケアのコレクションケースを検討中なので、スウェディッシュな感じでいいかもしれません。(意味不明)

ともかく始めましょう。
資料は「世界の名機シリーズSE ドラケン・ビゲン」です。表紙のオーストリア空軍機がカッコいいですが、今回は地味なブルーグレーです。ドラケンはオーストリア空軍が本家スウェーデンよりも長く運用したんですね。知らなかった。

この飛行機は一般的な前輪三輪式ではなく、尾輪もあって四輪式という珍しい形式です。という事は足回りの細かい部品が多いため、先にまとめてシルバーを吹いておきます。

ついでにエンジンの排気口も塗っておきます。組んでしまえばほぼ見えませんが、シルバーにクリアオレンジやクリアブルーを吹いて焼け具合を表現してみます。

さて、ここからいつも通りコクピットです。古めのキットなのでシンプルですが、デカールでそれなりの計器盤が再現できます。この後、ソフターでさらに密着させ、デカールの余白部分はほぼ見えなくなりました。追加工作などはしません。

あっという間に士の字です。パーツの合いは普通レベルなので、タミヤセメントを高粘度のいつものものと、流し込みタイプを併用して接着、マスキングテープで養生させます。2日程度置いた後、はみ出した接着剤と溶着部分をサンディングし、合わせ目を綺麗にします。
しかし、なかなか趣のある形をしています。

今回のテーマ、シャドー吹きによるグラデーション塗装に入ります。パネルラインに沿って黒を吹きます。クレオス2番の普通のグロスブラックです。なんだかすごいですね。今回は暗い色を先に吹き、この後に機体上面色を重ね吹きします。

上からグレーを吹きます。こちら下面ですが、グレーを吹くとなるほどシャドーができます。表現として大げさな気がしますね。更なる修行が必要です。ベアメタル部にメッキ調塗料を吹いて、デカールを置くとメカっぽさが増します。

上面のデカールを貼ります。ものすごく派手な「39」ですね。インスト通りの塗料で塗りましたが、実機写真をみるともっとブルーが強いブルーグレーな気がします。とはいえ、デカールも貼ってしまったのでこのまま行きます。必ず妥協点が出てきます…。

機首部の塗装は資料本を参考にインストを無視して塗った後、ネットでこの機番の実機を見つけて「インストが正しい」ことが判明しました。調べ方が中途半端でした。ハセガワさんごめんなさい。デカールも貼ってしまったので、紙を使ってマスキング。

修正後はこんな感じの機首になります。あとは半光沢のトップコートを吹いて、キャノピーのマスキングをはがし、小物を付けたら完成です。思ったよりも小柄で、なかなか見栄えのする戦闘機です。


おおよそ、5人日、期間としては2週間で完成しました。もう少し粗製乱造というか、エアブラシの表現をテーマにした制作を続けます。次回もジェット機です。

2018年7月26日木曜日

太平洋航空博物館


先日、オアフ島のパールハーバー歴史エリアを見学した。もちろん、12月8日/7日(日本時間/ハワイ州時間)の真珠湾攻撃がその歴史的展示の中心である。パールハーバーは現役の海軍基地でもあり、米国太平洋艦隊司令部などもあってかなり広大なため、見学はエリアはいくつかに分れている。日本の航空機によって撃沈された(これは画期的なことなのだが)戦艦アリゾナの上に建てられた「アリゾナ・メモリアル」、受付入口直ぐにある潜水艦を見学できる「USS Bowfin」。湾内にある離れ島フォード島に渡り、大日本帝国の降伏の舞台となった戦艦ミズーリの見学「Mighty MO」、そしてWW2時代の格納庫をそのまま利用した「太平洋航空博物館」である。全部回ると7~8時間の一日コースとなる。すでに「アリゾナ・メモリアル」は10年程前に見学した。旧敵国で敗戦国の国民である私が黙祷するのも妙な話だが、それはそれで礼儀であろうし、どの国であれ戦死した兵士には敬意を表したいので、周囲のアメリカ人学生(だろう。多分)と共に黙祷した記憶がある。今回はまだ訪れたことのない太平洋航空博物館を見学することにした。

◆37格納庫
ここは太平洋戦争/大東亜戦争で使用された軍用機が展示されている。エントランスを抜けるとすぐに我が国の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)がある。

残骸からレストアされた21型だが、驚くべきことに飛行可能だそうである。エンジンは残念ながらオリジナルではない。もちろん、この博物館の趣旨に沿って真珠湾攻撃時の塗装になっている。その先にはアメリカにとって反撃の狼煙となった「ドーリットル東京空襲」時の塗装が再現されたB-25、「ミッドウェイ海戦」仕様のドーントレス、25機の日本機を屠ったというF4Fが並ぶ。どれもレストア済で状態は良好のようだ。
ハワイ州とはいえ、本土に攻め込まれた意味は米国にとって重いようで、日本の奇襲を強調する映像が流されていた。しかし、零式艦上戦闘機の説明など読むとその高性能を称えつつ、敬意をもって説明されていた。自国の戦士を称えるのは当然だが、敵国の戦士にも敬意を払うことができるか否かは、その国の品位というか品格というかを示す分かり易い指標だろう。最も我が国は「自国の戦士」を称えることすら拒否する人々が多数という珍妙な属国なので品格も何もありはしないのだが。





そんなことをつらつら考えつつ、外に出る。すると少し離れた79番格納庫まで、恐らく退役軍人のオヤジと思われるドライバーがゴルフカートで我々を乗せていってくれる。礼を言うと、ニコリともせずに”My Pleasure."とぶっきらぼうに言うだけだが感じはよい。そのあたりが退役軍人だと思わせる。

◆79格納庫
外に展示(放置)してあるつい最近まで現役だった戦闘機やヘリコプターは後回しにして、日本軍の弾痕が残る79倉庫を先に見学する。

ファントムやデルタダガー、F111というような歴史的な戦闘機、或いは旧ソ連のMiG17がまず目に入る。ここは展示場であると同時にレストア施設であり、少し奥に行くと、日本の九七式艦上攻撃機がレストア中であった。真珠湾攻撃の立役者であり、アリゾナを沈めた九七艦攻がその真珠湾でレストア中とは。その先にはF6Fヘルキャットがレストア待ちだった。この九七艦攻は非常に貴重である。



戦前の「全否定による自己正当化」という腰抜けを通り越して小児病的なマスメディアと大量人が支配する日本では、有志が米国でレストアした零戦の里帰りにすら「戦争を連想する」「軍国主義礼賛だ」と中学生以下の反応が起こる。企業はイメージダウンを恐れてスポンサーになろうとしない。なるほどマッカーサーの言う通り日本人の精神年齢は12歳かもしれぬ。敗戦国の倣いとは言え、本当に米国に骨抜きにされたのか。それとも日本人は元々その程度であったのか。前者だと思いたいが、近ごろは後者ではないかと疑っている。

「自国の軍と自国の歴史に敬意を払う」姿勢。羨ましさにため息をつきつつ外の展示エリアへ。

◆外エリア
79格納庫の外には広大な滑走路が拡がり、ハワイの陽光に目が眩みそうになる。すぐ隣には20-30機ほどの軍用機が展示してある。放置に近いが。まずシコルスキー・シーキングやアパッチなどのヘリコプター。

そのすぐ後ろにはF-14Aトムキャットがある。この機体を見るとどうしてもトム・クルーズとDanger Zoneをセットで連想してしまう。
F-14の前方にはF-15イーグルがある。実戦ではほとんど落とされたことがない戦後最強の戦闘機もF-22やF-35などの第五世代の戦闘機に取って代わられている。
最も我が国の航空自衛隊では未だ主力ではあるが。


MiG21なども置いてあり、丁寧に見ていけばキリがない。が、炎天下なのでそういつまでも見ていられない。また、例のゴルフカートに乗って37倉庫へ。たまたまだろうが日本人の見学者は我々以外にはおらず、しかも小さな子供連れなので、目立つらしい。オヤジも例によってニコリともせず、乗せてくれた。

博物館は何にせよ色々学ぶことができる。

2018年3月10日土曜日

A-10A タミヤ1/48


プラモデル制作記です。

2017年7月に独立起業後すぐに制作に取り掛かったA-10Aが先日ようやく完成しました。約7か月かかった計算になります。独立後バタバタしていたとはいえ、過去最高に期間がかかってしまいました。途中完全にダレていましたが、念願のエアブラシ導入後の作例として何とか完成までこぎつけることができました。
前職の先輩がこの機体が好きだということで、初めて現用機をチョイスしました。しかし、退職後のお中元に贈るつもりが、お歳暮になり、それも間に合わずお年賀になり、結局、寒中見舞いにすら間に合わないという体たらく。

A-10は言わずと知れたアメリカ空軍伝説の攻撃機です。1976年に配備されたというから、なんと42年現役機であり続けていることになります。ほぼ私と同い年。あまりにも基本設計が古いため、何度も退役させようという話は出るものの、湾岸戦争などの現代戦でもその威力を見せつけ、結局退役させることができない機体です。この飛行機は「近接航空支援」のみに特化したものです。難しく感じますが、ようするに地上軍と連携して、敵の戦車や戦闘車両、陣地などを上空から攻撃してくれるというもので、軍用機の用途としては最も古い(しかし基本的な)タイプの飛行機です。機種に備えられた30㎜ガトリング砲、通称アヴェンジャーは、1秒間に65発、ビール瓶サイズの劣化ウラン弾を放つことができる強力なものです。発射すると反動で機体速度が遅くなるという伝説があるような機関砲で、戦車の上部装甲など一たまりもありません。そもそも、A-10という飛行機はアヴェンジャーを乗せるために作ったようなもので、空飛ぶガトリング砲といった方が当たっているかもしれません。

さて、だいぶ前置きが長くなりました。このタミヤ1/48 A-10Aですが、1991年発売ということで四半世紀前のキットです。流石にこの4-5年に発売されたキットのような精度の高さはありませんが、そこはタミヤ。特に組みにくいということもなく、凸モールド(今のプラモデルはスジボリなので凹モールドです。)もなかなか楽しめました。

まず、箱から出して受ける印象は「デカい!」です。いつも1/48の第二次世界大戦のプロペラ機ばかり作っているものとしては、このデカさは強烈です。また濃い緑のプラスチック成型色もなかなか新鮮です。

とりあえず仮組みしてみます。やはりデカい。零戦の三機分はあるでしょうか。贈答用として制作を開始しましたが、こんなものもらっても迷惑かもしれないとこの時思いました。
キットが古く、派手に合わせ目ができるので、士の字に接着してからひたすら紙やすりで合わせ目消し。多少モールドが消えますが、いくら何でもこのままでは子供の作ったプラモデルになってしまうので、後で復活すればいいでしょう。

モノがデカいので、接着剤も瞬着は脆過ぎて使えません。昔ながらのタミヤセメントをたっぷりつけて、マスキングテープでのんびり養生させます。その間、ジェットエンジンを筆塗で作ってみます。GSIクレオス社のMr.メタルカラーで金属感を出してみます。
とりあえずエンジンを機体に組み込みました。ついでにこのタイミングでコクピットも作っておきます。
さあ、ここでエアブラシの出番です。サラリーマン時代は手が出ませんでしたが、GSIクレオス社のL7というエアブラシシステムを購入しました。そもそもこの機体を購入した時に「このリザード迷彩は筆塗では無理だな」と考えていました。初めての習作が贈答用とかふざけているのかという感じですが、何とか吹いてみましょう。
人気の機体なので、Mr.カラーに専用色が出ていました。エアブラシ初心者でもなんとか雰囲気は出せました。腕じゃなくて、機材と塗料が優秀なだけです。説明書の塗装図を見ながらフリーハンドで吹いていきます。単純な迷彩ですが、3色使っています。どちらがどちらに被っているかを参考図書などで確認しながら吹き付けます。さすがにここまで面積が大きいと練習量も比例して増え、だんだん感覚をつかめてきます。
現用機をあまり作らない理由の一つがやたらと面倒な「注意書き」のデカールの嵐。仕方がないのでチマチマと貼って行きます。
とりあえずシルバリング修正と段差修正のためクリアを吹きます。
後は地上攻撃機に欠かせない兵装関係を装備して完成です。よく見ると粗も多いですがA-10以外には見えないので許してもらいましょう。それこそ伝説のスツーカパイロット、ルーデル大佐も開発に一枚噛んでいたというA-10A。なかなかの迫力です。世界情勢を見るに残念ながらまだまだ出番はあるでしょう。

次回はようやく日本の大戦機「帝国陸軍 四式戦闘機 疾風」です。エアブラシで仕上げる初の大戦機。どうなることか。




2017年7月30日日曜日

エデュアルド F6F-5 ヘルキャット 1/48

プラモデル制作記です。

完成から間が空いてしまいましたが、2週間ほど前にエデュアルド社製のグラマンF6F-5が完成しました。4月初旬から初めてちょうど3か月かかった計算になります。「太平洋の蒼い魔女」こと「ヘルキャット(ガミガミ女・化け猫の意)」は第二次世界大戦中盤に登場し、零戦をはじめとする日本軍機をなで斬りにした恐るべき戦闘機です。オーソドックスかつ堅牢な設計で、旧式となりつつあった米海軍主力戦闘機の後継機の本命であった、新機軸の多さから実用化の遅れたF4Uコルセアへの繋ぎとして採用され、その結果、繋ぎどころか終戦まで主力戦闘機であり続けました。

速度、運動性、上昇力、武装という要素はすべて1.5流、堅牢性は1流、しかし、そのバランスの高さが超一流という優れた戦闘機であり、いうなれば10種競技のチャンピオンのような戦闘機です。零戦が、運動性と武装と上昇力が超一流、しかし堅牢性は3流以下という欠点があったこととは対照的に、弱点のない戦闘機ということができるでしょう。

日本のある年代から上のいう「グラマン」とはこの戦闘機のことです。私の父も東京大空襲の頃、当時住んでいた大森から千葉へリアカーで疎開したそうですが、途中東京湾で「グラマン」に機銃掃射されたとのことです。もちろん、別の機体だったかもしれませんが、アメリカの小型飛行機はまとめて「グラマン」だったわけです。「最も日本軍機を叩き落した戦闘機」に敬意を表して作成してみました。

さて、前置きが長くなりましたが、早速作ってみましょう。今回はチェコの老舗「エデュアルド社」の1/48 Grumman F6F-5 HELLCAT Weekend Editionです。以前下北沢のプラモデル屋で、どういう風の吹き回しか妻が買ってくれたものです。模型製作上のテーマは「以前、カーモデルで身に着けたミラーフィニッシュを飛行機でやってみる」です。



なかなか変わった成型色ですね。胴体部分がオリーブ、翼部分がグレー。

いつもはコクピットから作りますが、今回はエンジンから行ってみましょう。2000馬力級のエンジンはさすがにデカい。


プロペラもつけてみます。F4Uとエンジン・プロペラは共用ですが、現代でも通じそうなところがさすがに先進国。

基本的に外国機は追加工作はしませんが、シートベルトぐらいは足しておきましょう。


サクサク組んでいきます。エデュアルド社のこのキットはかなり新しいとのことで、よくできています。パテはほとんど無用です。


試しに胴体だけクレオス社のスプレー缶「ネイビーブルー」で塗装して、軽く研磨してみます。


なかなかよい感じです。なのでこのまま全体をネイビーで塗装。主要なデカールを貼付して、大量にクリア塗料をやはりスプレーで吹き付けます。乾燥したらひたすら研磨。タミヤのコンパウンドの極細、仕上げ目で顔が映り込むまで磨きます。


まあ、こんなものでしょう。自然光でもチェックします。

あとは悔しいですが日本軍機のキルマークや細部のデカール、筆塗で仕上げたキャノピーを乗っけて、すす汚れなどを表現して完成です。




いかがでしょうか。制作期間は工数的には2週間ぐらいでしょうが、スケジュール的には3か月かかってしまいました。




現在は以前作成したF4Uコルセアと共に、1945年の米海軍主力機を書斎の飾り棚に置きました。

次回は当面最後の外国機かつ現用機ですが、勝手がわからず苦戦中です。とうとうエアブラシを購入せざるを得ないかもしれません。それはそれで楽しみですが、時間をどうやってひねり出すかが最大の課題です。


2017年6月11日日曜日

Zero fighter. In other words, the glory of Japanese Navy

産経ニュースの「零戦」に関する配信記事が右寄りの新聞の割にかなり雑だった。雑というのは異論の多いことをあたかも定説のように書いており、さらに強調していることである。あまり興味のない一般人に広く紹介する記事にもかかわらずこの雑さはいただけない。「現用飴色」論争という、航空評論家でイラストレータの野原茂氏が言い出した「零戦の色」に関する「珍説・新説」に関する論争がある。端的に言ってマニアにしか用のない馬鹿馬鹿しい話なのだが、米国と違ってカラーフィルムの技術がなかった日本の機体は、文献と証言に頼るしかなく、このような水掛け論的な論争が始まる余地がある。野原氏の議論は矛盾と不備が多く、ある一つの文献に在ったという「わずかに飴色かかりたる灰色」を「飴色」と強弁してしまっている。普通「わずかに飴色かかりたる灰色」は「灰色」だろう。他の文献にも誤謬が多く、野原氏の説は信用できない。研究者や知見者はおよそ飴色に否定的、商業ベースは飴色に肯定的というのが現状である。

模型ファンにしか用がない話はこれくらいでやめよう。先日千葉県は幕張で開催されたRedBullエアレース2017を観戦してきた。初めて観戦したのだが、さすがはレシプロ機の最高峰レースの一つ、「空のF1」と呼ばれるだけのことはあって物凄く面白い。テレビ画面で見ていてもさほどではなかったが、クルマなど問題にならない高馬力、高回転のエンジン音が心地よく、アクロバティックなレースを観ていればの細かいレギュレーションの意味もわかる。なんと言ってもスケール感やスピード感を間近で観られる臨場感が素晴らしい。しかも結果は日本人レーサーである室屋義秀選手とチームファルケンが優勝した。

エアレースには空の祭典という位置づけもある。クルマやジェット機と違ってなかなか間近で観られる機会のないプロペラ機(レシプロ機)が高度20−50mを飛び回る祭典には、やはりレシプロ機の最盛期だった第二次世界大戦時代の機体が観たいものである。ジエットという技術革新のあと、レシプロの高性能機を作る意味は失われ、あの当時以上の飛行機はもう永久に現れない。今回のエアレースではブライトリング社が所有する、1940年製(!)のダグラスDC-3と、レストア(修復)された三菱 零式艦上戦闘機がデモフライトを行なった。世界中に4機しかない飛行可能なレストアされた零戦のうちの一機であり、熊本大震災の際にもくまモンのロゴをつけて飛んだ企業を含む有志「零戦里帰りプロジェクト」によるもので、戦後初の日本人パイロットによる国内飛行だった。映像ではロシア製の新造機を含め飛翔する零戦を何度も観ているが、この目で零戦のフライトを観たのは初めてだった。私が観た日は予選の日で、チェックのためかランディングギアを出したままの飛行だったが、夕暮れの中をゆっくりと脚を出したまま飛び去る零戦はあたかも「帰投(帰還の海軍用語)」のようであり、非常に感動的で、観客からも歓声が上がり、それぞれが手を振っていた。

さて、産経新聞の紹介があんまりなので、零戦について簡単に紹介したい。ただあまりにも有名な零戦については良質な専門書も山ほど出ているので、ちょっと聞いたことはあるけどというような人向けにごく簡単に書いてみたい。新聞よりはマシな紹介になるといいのだが。



零戦(ゼロセン•レイセンどっちで読んでもいい。どちらも戦時中から使われていた。)は帝国海軍航空隊が運用した戦闘機である。当時の日本は空軍がなく、陸軍と海軍がそれぞれ航空隊を持っていた。これは米国も同じである。1940年、即ち皇紀2600年に採用されたため、当時の命名規約に則って下の2桁00から「零式」となった。だから、一年前に採用された機体は99式である。正式名称は零式艦上戦闘機(この場合は「れいしきかんじょうせんとうき」)である。艦上というのは航空母艦(空母)で運用することができるということである。空母は案外小さいので、普通の飛行機は滑走路が短すぎて離着艦できない。だから、海軍というのは今でも専用の機体を運用しているものである。

戦闘機というのは敵の飛行機を叩き落とす(撃墜する)ための飛行機である。だから、高速かつ身軽でなければならない。さらに武装が強力なら申し分ない。相手よりも速く、すばしこく、武装が強力ならば圧倒的に有利である。しかし、これらの条件を同時に全て満たすのは難しい。なぜなら、速いということは素早いことと矛盾する。ちょっと考えるとわかるが、クルクルと素早く動き回るというのは旋回性能が良いということである。蝶はヒラヒラと飛ぶ。そして予測不能にクルクルと動き回るから、狙いが定めにくく鳥もあまり狙わないそうだ。なぜこんなことができるかというと、体の大きさの割に翼の面積が大きいからだ。だから非常に素早く、ヒラヒラと舞うことができる。だが翼の面積が大きいとトンボや蜂のように高速で飛ぶことはできない。スズメバチなどは体の割に翼が小さいが、蝶よりもはるかに高速で飛翔できる。だが蝶のようにヒラヒラと舞うことはできない。これが、速さと身軽さ(速度と旋回性能)の矛盾である。更に武装が強力という条件は重量を増すことにつながる。戦闘機の部品でエンジンを除けば武装(大抵は機関銃)がもっとも重い。銃というのは基本的に重ければ重いほど強力なので、強力な武装を積むと、明らかに身軽さに悪影響を及ぼす。エンジンの出力が小さければ速度も落ちる。

ところが、零戦という飛行機は、それを高いバランスで実現させてしまったのだ。1940年当時の基準では速度は一流(500km/h以上)、旋回性能は超一流、武装も当時の水準を抜いたものであり、さらに長時間かつ長距離飛べるという万能っぷりであった。言ってみれば、ボクシングも柔道も強く、短距離走も速く、マラソンも強いという訳のわからない戦闘機であった訳である。普通は「どれか」に優れているものだが、「全て」に優れているという途方も無いことである。当時は軍事大国ではあっても後進国、航空技術など西洋の猿真似(残念ながら1930年代前半までは当たっている)と思われていた日本がこのような万能戦闘機を生み出したことは画期的な出来事であった。戦争が始まっても、先に中国戦線で戦っていたアメリカ義勇軍からの「日本軍の戦闘機は超一流だ」という報告をアメリカ軍やイギリス軍は信じることができず、開戦からおよそ2年間はどちらも零戦に圧倒されてしまう。何しろ、味方のどの飛行機よりも速く、素早く、強力なのだ。敵うはずがない。ゼロというネーミングも手伝って、神秘的なレベルでアメリカやイギリスのパイロットに恐れられた。

これが大げさでないことは1941年の米海軍航空隊の訓示に現れている。「次の場合は戦闘を放棄して良い。1.雷雲に入った時 2.ゼロと遭遇した時」この訓示を聞いた時、誇り高いトップガン達はどれほどプライドが傷ついたことだろう。だが、黄色い猿が作って操縦しているはずの零戦にはどうしても歯が立たなかった。例えば強力な武装を例に挙げてみよう。今日のジェット戦闘機にはミサイル以外に機関銃も付いている。機関銃は進化したバルカン砲だが、最新鋭かつ最強と呼ばれるアメリカのF-22ラプターの機銃の口径は20mm(直径2cmの弾丸が打ち出されるということ)である。では零戦はといえば、なんと同じく口径20mmである。つまり、戦闘機としては時代を先取った最強に近い武装である。当時のアメリカの機銃はほとんど7.7mmから12.7mm。これに加えて一流の速度と、そしてこれは大戦末期まで揺るがなかった素早さ(旋回性能の高さ=格闘戦の強さ)が加わり、初期の頃のキルレシオ(撃墜対被撃墜比率)は一説には50:3(零戦が50機撃墜する間に3機しか墜とされない)ということもあったそうだ。

だが、非常識なまでに高性能な戦闘機には、非常識な弱点がある。アリューシャン列島で不時着した零戦を徹底的に調べ上げた米軍は弱点を見つけた。速く、素早く、パンチ力がある戦闘機を実現するために設計者の堀越二郎技師のとった方法は徹底的な軽量化だった。骨格に当たる桁にも軽量化のために孔を穿ち、操縦席のシートさえ穴だらけである。増してや防弾板など以ての外。そしてそのため、比較的脆弱であり急降下速度も遅く、高速時のカジの効きも悪い。ほんの些細な弱点かもしれないが、そこをつかねば勝てないし、アメリカのパイロット達は日本のパイロットよりも高い柔軟性があった。それ以降、対零戦の戦法を確立し少しづつ、しかし確実にキルレシオを逆転させていった。

また、防弾装備がないということは撃たれても墜とされてもパイロットは死ぬということだ。優秀なパイロットが次々と戦死し、石油と国力の乏しい日本はジリ貧となっていく。アメリカは零戦を凌駕する高性能な戦闘機を次々に送り込み、また豊富な石油資源を背景に十分に訓練された新人パイロットを補充する。資源も基礎工業力も乏しい日本は、敗戦まで零戦に頼るしかなく、最後はまっすぐ飛べるだけの新人パイロットが零戦に乗って特攻するということになった。それは日本海軍の栄光と没落そのものだったろうと私は考える。


ざっくりと零戦に付いて書いてみた。この程度のことは新聞ならば書いて欲しい。何色だったかなど瑣末な話である。エアレースで飛んだ零戦は22型という形式である。零戦とそのパイロットがもっとも脂ののった時期、ニューブリテン島のラバウルでアメリカ軍と激戦を繰り広げていた頃のものだ。そんなことを考えながら幕張の空を思い出している。

2017年2月15日水曜日

破壊的イノベーションの生まれる時

趣味の一つで飛行機のプラモデル制作をしています。所謂、実物をスケールダウンした、スケールモデル専門です。いい年をして何が面白いのかという疑問がおありでしょうが、これが面白いのです。一つには立体を組み上げるという楽しさですが、これなら何を作っても同じ楽しみはあります。世代的には「ガンプラ」も楽しいものです。(ちなみにグフが好きです)しかしスケールモデルは実物があるので、実物を見たり、いろいろな資料を当たりながらプラモデルに落とし込んでいくということができます。なかでも飛行機は実物をそう簡単に所有できるわけでなく、古い飛行機ならば資料しかありません。書籍やネット、博物館などに行ってそれらを漁るのも飛行機モデル作りの醍醐味だと勝手に考えています。

私もそうですが、飛行機モデル好きの7割ぐらいは「戦闘機」が一番好きなのではないでしょうか。身近な旅客機やエアレーサーのような民間機も格好いいのですが、軍用機、とりわけ戦闘機はやたらと格好よく見えます。軍用機は戦闘機以外にも、輸送機・爆撃機・攻撃機・偵察機など様々ありますが、「飛行機を叩き落とす」という目的のために作られた戦闘機は、いわば「猛禽類の精悍さ」のようなものがあるように思えます。何しろ、敵だって同じようにこちらの飛行機を叩き落とそうとするわけですから、少しでも「速く・高く・すばしこく」なければなりません。そうやってしのぎを削って性能向上してきた結果、贅肉のない機能美のようなものを戦闘機は纏ったのでしょう。

1903年にライト兄弟が人類初の動力飛行をしてから様々な発明とイノベーションを繰り返し、主に軍用機の分野で今日の情報技術のような異常発達をしてきた飛行機ですが、1930年から40年代までにプロペラ機(ピストンエンジンで飛ぶレシプロ機)はほぼ完成の域に達します。「速く・高く・すばしこく」の内、「速く」というのがこの時点での軍用機の最重要な要件になっていました。とりわけ戦闘機では「速さ」は他の全ての要素を圧倒するほどの重要な要件でした。少々「すばしこさ(旋回性能・格闘性)」が悪くても、速度さえあれば敵機を圧倒できます。各国(英・米・独・日の列強。この時点ではソ連は入りません)が開発競争を繰り返した結果、およそ実用機で600km/h〜700km/h、どれほど頑張っても、800km/hぐらいがプロペラ機の限界というのがわかってきました。いわゆる「音速の壁」です。プロペラというのは回転速度が速くなればなるほど効率が落ちます。音速に近づくと空気が圧縮されてしまうのがその理由です。音速はおよそ1225km/h(≒マッハ1)ですから800km/hでもだいぶ余裕がありそうですが、機体が音速になる前にプロペラの速度が部分的に音速近くになってしまい、その結果スピードが頭打ちとなるわけです。ちなみに600km/hを越えるとまずまず高速機と言っていいというのがおよそ第二次大戦末期までの状況です。

そんな中、1944年のドイツで「破壊的イノベーション」が起きます。史上初の実用ジェット戦闘機が運用を開始しました。メッサーシュミットMe262です。先述のように実用戦闘機の速度が600km/h〜700km/hという時期に、このプロペラを持たない異様な姿の戦闘機は一気に870km/hという桁違いの速さで敵機を圧倒し始めます。同時代の敵味方の最新鋭機の速度差が200km/h近くも開いたことはありません。生みの親のドイツはそれでも戦局をひっくり返すことはできず、第三帝国は崩壊しましたが、ジェット戦闘機はまさしく破壊的イノベーションであり、それ以降プロペラ戦闘機はもはや過去の遺物となっていったのです。ある意味、現代の全てのジェット機の直接の始祖鳥がこのMe262です。


さて、Me262は発明ではありません。あくまでイノベーション(新結合・革新)の産物です。ジェットエンジンの原理の発明はなんと1791年。さらに実際にジェットエンジンが動いたのはライト兄弟の初飛行の年1903年です。それをさらに洗練させてターボジェットに仕立てたのが、イギリスのホイットルとドイツのオハインで、1930年代に戦闘機開発に適用されはじめ、既存の機体設計技術と結びついてMe262が実用化されたわけです。この破壊的イノベーションはナチスドイツを救えませんでしたが、ガラケーが駆逐されたごとく、短期間にプロペラ戦闘機を駆逐してしまいました。これ以降プロペラ戦闘機が新規に開発されることはもはやありませんでした。

この破壊的イノベーションは難産でした。まず0→1と1→100を成し遂げた企業と人物が違います。0→1を実現したのはターボジェットの生みの親オハインを擁するハインケル社です。政治的にナチと反りが合わないエルンスト・ハインケル社長は総統のヒトラーや空軍元帥のゲーリングに嫌われ、作り上げた試作ジェット戦闘機を量産させてもらえませんでした。ただこの試作機も650km/hを超えていため、いくらハインケルが嫌いでも首脳部は無視できず、社長がナチ党党員のメッサーシュミット社にジェット戦闘機を開発させます。ヴィリー・メッサーシュミット社長兼設計技師はただのゴマスリ野郎ではなかったため、ハインケル(というかオハインの)発想を下敷きにしつつも、後退翼のような新機軸の技術を盛り込んだMe262を完成させ、1→50ぐらいまでやりきります。これにはナチ上層部に気に入られているという立場を利用した政治力が不可欠でした。というのもエンジンを担当したBMWは最後までハインケル以上のエンジンを完成させ得ず、計画が何度も挫折しかかっているからです。結局エンジンを完成させたのはユンカース社でした。もしも主任技師がメッサーシュミットではなく、ハインケルであれば実用化どころか葬り去られていた可能性が高いでしょう。

そして残りの50→100を成し遂げたのは現場の実力者アドルフ・ガランド少将を中心とした現場です。最後までジェット機の本質を理解できなかったトップのヒトラーと違い、歴戦のパイロット(というかスーパーエースの一人)であるガランドは試作のMe262に試乗して「天使が推してくれているようだ」と語り、現場の戦闘機生産を徹底的に絞ってMe262を集中生産すべきと主張します。煙たがられながらもガランドは執念深く首脳部を宥めすかして説得し、半ば勝手に生き残りの優秀なパイロットをかき集めてジェット戦闘機隊を作ります。そして、圧倒的な性能とパイロットの技量で米軍を中心とした連合国に一泡吹かせ、ジェット戦闘機が次の時代のスタンダードであることを示したというのがイノベーションの実現までの大雑把なストーリーです。

こうしてみると、イノベーションを生み出すことと事業として成立させることは全く別のことであり、オリジネイターよりもコピーキャットの方がより良いプロダクトを作り、成功させることもあるということがわかります。例えば今時のビジネスマンなら誰でもお世話になっているマイクロソフトのパワーポイントも、元々は別の会社が開発したプロダクトでしたがマイクロソフトが会社ごと買収したことで、プレゼンテーションソフトのスタンダードになったわけです。もちろん、スティーブ・ジョブズ式に0→100を自分&自社でやるということもあり得ますが、これは例外中の例外と考えた方が無難でしょう。大企業の経営トップが死ぬまでイノベーターであり続けるというのは例外です。
ジェット戦闘機の始祖でさえオリジネイターではないのですから、政治力や営業力が強みであるという大企業は積極的に中小企業やスタートアップに大いに投資すべきなのかもしれません。少なくとも成功しかけている中小やスタートアップに投資するか買収してアイデアを戴いてしまう方が、0から自分で考えるよりも遥かに成功率が高いでしょう。
ただしトップのヒトラーは最後までジェット戦闘機の本質がわからず、Me262を爆撃機として運用しようとしていました。様々な理由からこの時点ではジェット爆撃機はあまり意味がありませんでした。その意味で投資に値するかを見抜く眼、あるいは伯楽の役割をもつガランドのようなキーマンが重要になってきます。善悪好悪から離れて一考の余地があると思いますがいかがでしょうか。

2017年2月3日金曜日

日の丸ヒコーキ

なにやら堅い話ばかりのブログだと思われているので、少し趣味の話を書いてみます。というのも、私が勝手に「熊本の師匠」とおよびしているブログ主がこちらを覗かれるそうなので、恥ずかしながら飛行機プラモデルの話を書こうと思った訳です。

昔から趣味は結構いろいろありまして、たとえばバンド活動(今でもベース弾きです。少なくともそのつもりです。)居合のような古武術、阿波踊り、ファンラン、写真、美術鑑賞、民俗学研究、神社仏閣巡りなどなどですが、仕事や子供に恵まれたことなどでさっぱりできていません。そんな中、「熊本の師匠」のサイトを見たり、「永遠の0」を読んだりした結果、「そうだ!中学生ぐらいまではプラモデルが好きだった!零戦作りたい!」という思いが復活し、忘れもしない娘が生まれる直前の2013年9月、衝動的にハセガワ社の「1/48 零式艦上戦闘機11/21型」を購入して作り始めました。10月の出産予定日に間に合わせようとガンバリまして(結果間に合いませんでしたが)完成させました。女房も一緒に映画『永遠の0』を鑑賞したこともあって、とりあえず理解してくれてそれから常時何かを製作しているという状態で今に至ります。

いくつか例外はあるものの、作る模型は「第二次世界大戦期の日本の飛行機」ばっかりです。どういう訳だか子供のころから大好きでして、戦闘機に限らず、爆撃機や攻撃機、偵察機でも日の丸がついていれば、なんでも作ります。ごく稀に日本と干戈を交えた米軍機や技術的に面白いドイツ機なども作りますが、思い入れが少ないので、どうしても塗装方法や製作方法の実験のためという感じになり、すぐに日本機に戻ってきます。

ご興味のある方向けにこれまで作ってきた飛行機のプラモデルを(恥を忍んで)晒してみようと思います。

■零式艦上戦闘機二一型(ハセガワ 1/48)
記念すべき出戻り一作目です。零戦と言えば「これ」かなと。スプレー缶と筆塗りで作りましたが、今見るとヒドイ出来ですな。塗料が厚すぎる、ハゲチョロが適当すぎる、工作が雑すぎる、窓枠が汚いなど粗だらけです。ともあれ、これが完成したのでプラモデルの趣味が復活した訳で、その意味では「記念すべき」なんでしょうね。やっぱり。


■一式戦闘機「隼」二型(ファインモールド 1/48)
海軍の零戦を作ったら、陸軍の隼を作らないとという理由で作ったのがこれです。銀塗装の難しさを思い知りましたね。なんだかアルミ(ジュラルミン)が痛んだ風になっていますが、実際には研ぎ出しに失敗して下地が出てしまっているだけです。ファインモールド社の隼は素敵な形状なので、再度挑戦したい機体です。



■零式艦上戦闘機五二型(タミヤ1/48)
映画『永遠の0』を観た友人から、是非主人公の宮部機を!という声がでました。で、タミヤ社も新金型で1/48の零戦を映画とタイアップして発売したので乗ったというものです。暫くは1/48のキットとしては決定版でしょう。精密さもそうですし、部品の刷り合わせも完璧で腕が伴わないのが悲しい、タミヤ社の実力を実感できるキットでした。リクエストをいただいた方に貰っていただけた機体です。同じシリーズのニニ型はまだ買ってもいないので、そのうち作りたいと思っています。いつになるやら。


■局地戦闘機紫電一一型(ハセガワ1/48)
妻の実家の傍にあった谷田部海軍航空隊所属機を作ったら、義理の父の部屋あたりに飾ってもらえるかなと思い製作した機体です。この紫電あたりから、ようやく「それらしい」塗装やウェザリングができるようになってきたようで、Facebookでも褒めてもらえるように。下手なりに多少の進歩を実感したような気がする機体です。過分にも妻の実家でガラスケースの中に飾って頂いています。


■二式単座戦闘機二型乙(ハセガワ1/48)
松本零士氏の「戦場まんがシリーズ」にあるこの戦闘機の出てくる「成層圏戦闘機」が大好きでした。靖国神社を参拝した折、遊就館で写真集を見つけてしまい、これは作らねばならないということで製作しました。初めてリベットを打った思い出深いキットです。娘が生まれたので「鐘馗」という愛称を持つ、この機体に守ってもらおうと、我が家の飾り棚で上空をにらんでおります。これについては尾翼マークが「赤」の可能性が高いようで、機会があればまた同じ70戦隊の吉田機で作りたいと思っています。


■九七式艦上攻撃機一二型(ハセガワ1/48)
ハワイへ家族旅行を計画した際、「それなら真珠湾だ、アリゾナメモリアルだ」と一人で勝手に盛り上がり、真珠湾攻撃の総指揮をとった淵田中佐機をということで、作ったのがこのキットです。大口径砲を持つ戦艦が魚雷を抱えた飛行機の前に無力であることを証明した機体なので、魚雷を抱えさせたかったのですが、史実として爆弾を抱えていたので、泣く泣く爆弾を抱えさせたものです。大型機なのでリベットが大変でした。出来は・・・まだまだですね。


■ヴォートF4Uコルセア(タミヤ1/48)
近所の昔からある文房具屋兼プラモデル屋のご主人が店をたたむということで、全ての商品を半額で売っていました。そこで1/48のめぼしいモデルをまとめ買いしたものの内の一つです。同じ時期に行きつけのプラモデル屋に好意で譲っていただいたタミヤの缶スプレー「ネイビーブルー」を使える機体ということでチョイスしたのがこれです。特に思い入れもないのでリベットレス。ただ日本機と比べて足回りが特に「よくできているなあ」という印象。プロペラも大きく、なかなか飾り映えするキットです。ディズニーのプレーンズにも登場したので、いつか甥っ子あたりが欲しいと言ってくれないかなと。


■局地戦闘機紫電二一型(ハセガワ1/48)
出張で松山に行く機会があり、松山=343空=紫電改=菅野大尉と考えて製作したキットです。インスタグラムのメジャーなアカウントに取り上げてもらい、いくつかのSNSグループに参加する切欠になった作例になりました。紫電同様、妻の実家で分不相応に飾っていただいています。ともあれ、取り敢えず平筆を使った筆塗り暗緑色なら、まあこのぐらいは作れるという自信がつき始めた時期です。とはいえ、超有名機なので、作例も多く
まだまだなのですが。


■二式複座戦闘機 丁型(ハセガワ1/48)
筆塗りで迷彩を再現というテーマで作成したものです。もともと飛行機にハマる切欠となった書籍が元パイロットの親戚にもらったサンケイ出版の「屠龍」という本だったので非常に思い入れのある機体でして、「丁寧に丁寧に」制作しました。その割にいつもとレベルは変わらないのですが。鍾馗と共に我が家の飾り棚の上で魔除けとなっています。


■局地戦闘機雷電二一型(タミヤ1/48)
田中式筆塗りというデカール(スライドマーク)やエアブラシを一切使わず、極細の面相筆だけで塗装する技術を知り、その練習として制作しました。キットは40年前に発売された古いものなので部品点数も少なく、リベット打ちの後は塗装に没頭できました。日の丸も含めて全て筆塗りです。作例の出来はともかく、新しいスキルを身につけられた作例となったと思っています。



ちなみに今はMe262を作成中です。
熊本の師匠、皆様いかがでしょうか??