2017年7月30日日曜日

エデュアルド F6F-5 ヘルキャット 1/48

プラモデル制作記です。

完成から間が空いてしまいましたが、2週間ほど前にエデュアルド社製のグラマンF6F-5が完成しました。4月初旬から初めてちょうど3か月かかった計算になります。「太平洋の蒼い魔女」こと「ヘルキャット(ガミガミ女・化け猫の意)」は第二次世界大戦中盤に登場し、零戦をはじめとする日本軍機をなで斬りにした恐るべき戦闘機です。オーソドックスかつ堅牢な設計で、旧式となりつつあった米海軍主力戦闘機の後継機の本命であった、新機軸の多さから実用化の遅れたF4Uコルセアへの繋ぎとして採用され、その結果、繋ぎどころか終戦まで主力戦闘機であり続けました。

速度、運動性、上昇力、武装という要素はすべて1.5流、堅牢性は1流、しかし、そのバランスの高さが超一流という優れた戦闘機であり、いうなれば10種競技のチャンピオンのような戦闘機です。零戦が、運動性と武装と上昇力が超一流、しかし堅牢性は3流以下という欠点があったこととは対照的に、弱点のない戦闘機ということができるでしょう。

日本のある年代から上のいう「グラマン」とはこの戦闘機のことです。私の父も東京大空襲の頃、当時住んでいた大森から千葉へリアカーで疎開したそうですが、途中東京湾で「グラマン」に機銃掃射されたとのことです。もちろん、別の機体だったかもしれませんが、アメリカの小型飛行機はまとめて「グラマン」だったわけです。「最も日本軍機を叩き落した戦闘機」に敬意を表して作成してみました。

さて、前置きが長くなりましたが、早速作ってみましょう。今回はチェコの老舗「エデュアルド社」の1/48 Grumman F6F-5 HELLCAT Weekend Editionです。以前下北沢のプラモデル屋で、どういう風の吹き回しか妻が買ってくれたものです。模型製作上のテーマは「以前、カーモデルで身に着けたミラーフィニッシュを飛行機でやってみる」です。



なかなか変わった成型色ですね。胴体部分がオリーブ、翼部分がグレー。

いつもはコクピットから作りますが、今回はエンジンから行ってみましょう。2000馬力級のエンジンはさすがにデカい。


プロペラもつけてみます。F4Uとエンジン・プロペラは共用ですが、現代でも通じそうなところがさすがに先進国。

基本的に外国機は追加工作はしませんが、シートベルトぐらいは足しておきましょう。


サクサク組んでいきます。エデュアルド社のこのキットはかなり新しいとのことで、よくできています。パテはほとんど無用です。


試しに胴体だけクレオス社のスプレー缶「ネイビーブルー」で塗装して、軽く研磨してみます。


なかなかよい感じです。なのでこのまま全体をネイビーで塗装。主要なデカールを貼付して、大量にクリア塗料をやはりスプレーで吹き付けます。乾燥したらひたすら研磨。タミヤのコンパウンドの極細、仕上げ目で顔が映り込むまで磨きます。


まあ、こんなものでしょう。自然光でもチェックします。

あとは悔しいですが日本軍機のキルマークや細部のデカール、筆塗で仕上げたキャノピーを乗っけて、すす汚れなどを表現して完成です。




いかがでしょうか。制作期間は工数的には2週間ぐらいでしょうが、スケジュール的には3か月かかってしまいました。




現在は以前作成したF4Uコルセアと共に、1945年の米海軍主力機を書斎の飾り棚に置きました。

次回は当面最後の外国機かつ現用機ですが、勝手がわからず苦戦中です。とうとうエアブラシを購入せざるを得ないかもしれません。それはそれで楽しみですが、時間をどうやってひねり出すかが最大の課題です。


2017年7月25日火曜日

サラリーマン生活を終えて

少し間が空いてしまったが、2017年6月30日をもって会社員生活に終止符を打ち、小さなコンサルティング会社を立ち上げて独立開業した。その選択が正しいのか誤りなのかはわからないが、二十代の終わりのころから考えていた独立を十年かけて実現にこぎつけたということになる。ひとえに家族、友人、職場の仲間、お客様のお陰であり、陳腐な言葉かもしれないが、赤心より感謝しかない。ありがとうございました。

私事を書き連ねるのはあまりよい趣味ではないが、少し会社員生活を振り返ってみたい。後進の若者の何かの参考に、或いは自己紹介になれば幸甚である。

私は1999年3月に大学を卒業したので、見事に「ロストジェネレーション」の世代であり、就職活動は厳しいものであった。とはいえその渦中にいた時は、景気の良い状況をしらないのであまり大変だとは感じていなかったが。150社ほど資料請求してエントリーシートを書き、30社ほど訪問と面接を繰り返してどうにか一社の内定を得て、大手百貨店の情報システム子会社に入社した。当時は事業会社が情報システム子会社を設立するのが流行しており、商用インターネットの黎明期ということもあって私のような「パソコンに触ったこともない」という学生でも受け入れてくれたのかもしれない。

右も左もわからないので、唯一イメージができる営業部門を希望したが、人手不足の開発部門に配属となり、とりあえず初心者プログラマとして会社員生活をスタートした。しかしすぐにプログラミングという作業がどうにも好きになれないことに気が付き、お客様との折衝や仕様の落とし込みの方が得意となって、わりと早い時期からプロジェクトリーダやプロジェクトマネジャを経験させてもらった。周囲にはプログラマ志望が多かったので、客先に出向いたり、折衝したり、見積や収支計算をすることに対して積極的な人がいなかっただけであって、私が優秀だった訳ではない。

社会人4年目の頃、「報酬は入社後、平行線で~♪」という椎名林檎の「丸の内サディスティック」を聴きながら人並みに、自分の商品価値はどの程度なのだろうか?と疑問を持ち始めた。仕事を一通り覚えた二十代後半の若者がよく陥る考えだが「勝負に出たい!」と思い始めたわけだ。事業会社の情報システム子会社というのは、基本的に事業会社とそのグループ内の情報システムを担う。それゆえに、グループの外については、転職した先輩社員やものの本からしか情報を得ることができない。ちょうど小泉旋風が吹き荒れ、弱肉強食の新自由主義が「正しい」と思われていた頃、自分も見事に「新自由主義者」として、弱肉強食の世界に出たいと考えたわけだ。また、酒飲みだったので給料を上げないとカードの引き落としが回らないという恥ずかしい理由もあった。

「力を試せて高給な職種は?」というなかなか若気の至りな理由で転職支援の会社へ相談すると、コンサルティング会社という選択肢を提示された。「コンサルティング会社で5-6年頑張り、事業会社へ情報システムの部長職へ転職、もしくは独立開業」というアイデアに夢中になり、社会人6年目の頃、米国資本のコンサルティング会社へ転職した。

そこは’UP OR OUT’(昇進かクビか)の文化のある典型的なコンサルティング会社で、製造・流通業を担当する部署に配属されると、早速現場に投入された。ここに転職して驚いたのは、言葉を選ばずに言えば「バカ」がいないということである。考えてみれば当たり前で「使えない」と思われれば即座に実質解雇になるのである。周囲の成長(特に理解力と知識の吸収率)と体力に圧倒され、ついていくのが精一杯という状況であった。例えば明日中国工場に出張して工場長にインタビューするのに、こちらは工場について何もしらないのだ。仕方がないから本を何冊も買い込んで、徹夜で読み込み、飛行機の機内でも読み込み、大慌てで資料を作ってインタビューに臨む、などということが常態である。気が付けば一般論だけならクライアントに負けないだけの知識(だけ)は身についていた。

しかし、そんな生活はそう長く続けることはできず、3年目に体調を崩したことと結婚を機に事業会社へ転職することにした。コンサルティング会社での3年間は地獄でもあったが、多くの知己を得たことと世界が広がる契機となった。その意味では大きなターニングポイントであった。

転職相談に行った転職支援企業(実は最初の転職と同じ会社)より、「それならウチにくれば?」とお誘いを受けたので、ちょうどベンチャーを脱したばかりのその会社にお世話になることにした。このころから「コンサルタントを軸として生きていこう」という考えが定まったので、様々な業界の状況を知り、人脈を広げるという(浅はかな)魂胆もあって、「転職志望者を企業へ紹介する営業」として配属の部署で仕事を始めた。

ここは何しろ若い人が多く、上司でさえ年下であり、若者を支援しつつ営業活動をするという毎日で、急成長した企業の御多分にもれず、早朝から深夜まで働きまくるという文化であった。その環境自体はコンサルティング会社で慣れていたのでどうということはなかったが、時あたかもリーマンショックの年で、一気に不況となった際の経営陣の対応が目に余ったので「申し訳ない」という思いを残しつつ、やはりお誘いを受けていた当時の営業先の製造業の会社へ移った。製造業といってもいくつかの事業部を抱えており、製造業向けのパッケージシステムを製造販売している部署であったので、何かの役に立つだろうという確信ともう少し事業会社について知っておこうという考えからオファーを受けることにした。

給料はさほど高くはなかったが、本業のエアコン事業が絶好調であるため、雇用に関する不安等はなく、ともかく製造業の企画・設計・生産準備・品質管理の業務を吸収し、2年間の営業を経て、コンサルティングサービスを立ち上げ、いくつかの会社にコンサルティングを実質一人で提供する機会や、社内のグローバルプロジェクトを手掛けたり、新製品を立ち上げる機会など、8年半にわたり、非常に充実したものとなった。もちろん楽しいだけではなかったし、腐ったりもしたが、ともかく様々な知己を得、終わってみれば感謝である。

結果的にIT・業務・経営のコンサルタントとして独立までようやくこぎつけることができた。それが成功なのか失敗なのかは全くわからないが、少なくとも思い描いたことが実現できたということになるだろう。最初のクライアントにもスムーズに恵まれ、とりあえずよちよち歩きながら、会社をスタートさせることができた。最後の決断には家族や住宅ローンなどもあるので、それなりの勇気が必要だった。しかし妻をはじめとした周囲の理解、これまでご縁のあった方の手助けなどのおかげで、とにもかくにも船出をすることができた。

振り返ると、ひたすらここまでは人に恵まれたというのが実感である。「お陰様」という言葉があるが、この意味をかなり実感を持って噛みしめている。これまでの社会人生活で出会った人々、学生時代の仲間、直接しらなくともWEB経由で知り合った人々、そしてなんといっても家族、とりわけ妻の理解がなければなにもできなかっただろう。


従業員ではなくなり一人になってみたほうが人のありがたさが実感できる。逆説的だがそういうものなのかもしれない。皆様、感謝です。引き続きよろしくお願いします。