2017年2月26日日曜日

芸術と商売

「お前などは彫像を商うよりも、豆でも商っているほうがふさわしい」

花の都フィレンツェがルネサンスの中心であった14世紀から15世紀に活躍した彫刻家のドナテッロをご存知でしょうか。重要な芸術家なので美術史や世界史の授業では大抵触れられているはずですが、レオナルド・ダ・ヴィンチ程には知られていない芸術家です。しかしその胆力は豪胆で知られるレオナルドに勝るとも劣りません。

「ある時、ジェノヴァの一商人が、ドナテッロにブロンズの頭部像を注文した。仲介をしたのは、メディチ家の当主で、当時のフィレンツェの事実上の支配者でもあり、ドナテッロのパトロンでもあったコシモ(コシモ・デ・メディチ)である。ブロンズ像は、見事に完成した。商人も、満足のようだった。ただ、ジェノヴァ商人にしてみれば、ドナッテロの要求した額が、非常識に思えたのである。ブロンズ像制作に要した期間は、一ヶ月かそれに少し足した期間にすぎない。一日分の労賃を半フィオリーノとしても、高すぎる、というわけである。
(中略)
『おまえなどは、彫像を商うよりも、豆でも商っているほうがふさわしい』
 といって、つくりあげたばかりの像を窓から投げ捨てた。道路にたたきつけられた像は、ひしゃげたブロンズのかたまりと化してしまった。

後悔したジェノヴァ人は、言い値の二倍だすからもう一度つくってくれという。だが、ドナッテロはもう耳を貸さなかった。コシモ・デ・メディチが推めても、耳を籍さなかった。」(塩野七生『わが友マキアヴェッリ』より)

これを読んでどう思われたでしょうか。ジェノヴァの商人に同情しますか?それともドナテッロにシンパシーを感じますか?1フィオリーノはおよそ12万円と考えて良いようです(現在の貨幣に換算するのは難しいですが、ざっくりと)。
すると大体6万円/日×30日として180万円という計算になります。このときにドナテッロが要求した額はわかりませんが、たとえば1000万円とだとしましょう。すると、人月単価で180万円(これだってマネジャークラスのSEもしくは、独立系のコンサル並みの価格です)で製作したものの付加価値が1000万円-180万円、即ち820万円であるとドナテッロは主張したわけです。

見積の提示はきっとなかったのでしょう。当時既に知られた存在であったドナテッロに、最高権力者のコシモを経由してアプローチしたのですから、ジェノヴァの商人もある程度は「はずんでやろう」とは思っていたに違いありません。おそらく、相場の2-3倍ぐらいを考えていたと想像します。「一日分の労賃を半フィオリーノとしても・・・云々」と言ってますから、きっと相場の一日分は1/4フィオリーノ即ち3万円ぐらいだとして、3×30日で90万円、その倍額として180万ぐらいを想像していたのではないでしょうか。ところが、ドナテッロの要求額は桁が違いました。



ジェノヴァの商人は後悔して「言い値の二倍だす」と言っているのですから、芸術の観点で価値が分からない人間ではないのでしょう。しかし、商人としてのセンスがドナテッロの要求額が非常識と思わせ、結果、傑作(だったかも知れない)を無価値なブロンズの塊にしてしまったのです。



一見、非常識な芸術家の非合理な言動に常識的な商売人が翻弄された話に読めますが、現代の我々が後出し的に眺めるとドナテッロが正しかったことが分かります。ドナテッロの彫刻は不滅の価値を持ったのですから。実はここに我々日本の企業とビジネスマンの限界と突破口があるように思えます。

2016年のアドビシステムズの調査では世界一クリエイティビティの高い都市は東京であると評価されているのにもかかわらず、自らをクリエイティブとと考える人の割合は、案の定最下位であり、クリエイティビティへの投資が成長のカギと考える人の割合も最下位でした。日本人はドナテッロであることに気がつかないということのようです。或いは、未だに「ドナテッロなど日本に生まれる訳はない」とでも思っているのでしょうか。ここから見えてくることの一つに「評価」の力が不足しているということが考えられます。

何かの価値を測る場面、例えば「新しい製品の価格を決める」という状況を考えてみましょう。ある製品の価格案を作成するよう頼まれたとしましょう。どうやってその製品の値段を決めればいいのでしょうか。既存製品の多い分野ならば「相場」や「他社見合い」でおよその価格が決定できるでしょう。後は原価率などから最大限の粗利が取れるように設定すればよいのです。しかし、世の中にないもの、新規性の高い製品だったらどうでしょう。

それでもまずは競合になりうる既存製品の相場を調べるでしょう。その製品の要素を分解して、それぞれの競合製品の価格を調べ、コスト計算を行い、投資回収のシミュレーションを行い、そこから付加価値分を含めた妥当な価格を導き出すという作業をするのではないでしょうか。しかし、この付加価値分というのがなかなか曲者で、B2Bの分野ではどうしても製品購入の投資対効果(ROI)が求められるます。それは値引きの方向に引っ張られるので、取り合えず「えいやっ!」と高めに設定するしかありません。ここでは高めというのがミソです。値引きは後からいくらでもできますが、自分の意思での値上げはまず無理だからです。

更に難しいのが人月商売です。人月単価をいくらにするのか?というのはなかなか難しいものです。システム構築(SI)の世界なら、ゼネコン同様に多重請け構造になっているため、およそ相場が決まっており一次請けベンダで1人月(一人が一ヶ月≒20日働く単位)で、100万円~150万円、二次請け三次請けで50万円~100万円というところでしょう。それをベースに何人月でシステムが構築できるかを事前に見積りし、価格を決定するのです。ところが、この見積は多くの場合外れます。自社内で完結してればいいですが、下請けを使っていると粗利がどんどん削られていき、赤字プロジェクトになったり、メンバーが徹夜に継ぐ徹夜のようなデスマーチがよく発生します。

さて、ここで経営者が考えるべきはどうやって「ドナテッロ」になるかです。本当に貴社の技術者は売価で100万円くらいの価値しかないのでしょうか?貴社に蓄積されているノウハウや知的財産、バックアップ体制やネームバリュー、何より価格以外の差別性を突き詰めましょう。もし「安価であること」しか差別要因がないのなら、それ以外の要因を出来るだけ早くつくることが経営者のやるべきことです。貴社にしかできないことは何か?これを突き詰めることが正しい自己評価につながるはずです。それができればたとえ腹の中だろうと、元請け会社に「お前は豆でも商っているほうがふさわしい」ということができるでしょう。そうすることで、投資すべき会社や案件の目利きポイントが少しずつ分かってくるはずです。

自分(自社)にしかない価値を見つけ、或いは徹底的に作り上げ、最大公約数的な価値から代替不可能な価値の提供へ変換する。それはマス・プロダクトよりも芸術品に似ています。芸術品は全ての人が理解できる必要はありません。理解できる人が高い価値を感じればそれでいいのです。あまりにも当たり前のことですが、我々は合理的になることによってのリスク回避にあまりにも偏っているのではないでしょうか。合理性とは誰もが理解できることの言い換えなので、それを追及すると、どこにでもあるモノやサービスになりがちです。リスク回避は絶対に重要ですが、それにとらわれ過ぎるとどこかの銀行のように「担保と保証」ばかりに依存意するようになります。それでは芸術品は創ることはできません。ドナテッロに鼻で笑われてしまうでしょう。

我々日本人は「ドナテッロ」だと世界は見ているのです。堂々と見合う金額を提示し「得をするのはあなたです」と言い切ってやりましょう。本当の価値など誰にもわかりません。ストーキングツールでしかなかったFacebookがこれほどの収益を生み出す企業になるなど誰一人予想できなかったはずです。まずは自分が納得できるまで努力して「うちの商品・サービス・技術者は傑作だ」と言い切ってしまいましょう。どうせ評価するのは他人ですが、全力を傾けたモノを「どこにでもある」と卑下すると、あたら傑作を無価値なブロンズの塊にしてしまうかもしれません。 (と半分自分に言い聞かせていたりしますが。)

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