2018年6月22日金曜日

帝王学の現代性~FY01の振返りに代えて~


今月は決算月である。会社設立の一年目を無事に迎えることができた。様々な幸運が重なった結果であり、皆様に心から感謝申し上げる。これは決して謙遜でも社交辞令でもない。そのように仕事はつながっていくということが理解できた結果である。さて、つらつらと1年間の仕事の経緯を振り返ってみてもあまり芸があるように思えないし、読者諸兄姉の参考になるとも思えないので、仕事を通じて気が付いたことを分析・整理してみることにする。


◆草創と守成といずれが難き
サラリーマン時代だが、急成長しベンチャーから抜け出た直後の会社に一年間お世話になっていたことがある。中に入ってみると、ロケーションやロゴ、企業スローガンなどは立派なのだが、業務は属人的で混沌としており、非常に非効率であった。そして非効率であるがゆえに、長時間労働は当たりまえであり、業界内ではいわゆる「ブラック企業」と呼ばれていた。リーマンショックを契機としてリストラという名の人員整理、経営者の交代を経て、今では立派にブラックとは呼ばれない大企業となっている。
この一年、支援してきたクライアント企業も同様に急成長し目下社員数数千名の大企業である。しかしブラック企業ではないものの、やはり非常に似た雰囲気である。やはり業務が属人的で非効率であり、ベテランメンバが「我流」を貫くやり方はどこか共通している。

ところで『貞観政要』という8世紀に書かれた唐の古典がある。この本は唐帝国の中興の祖である太宗と家臣の言行録として、その太宗の後継者へ「帝王とは如何にあるべきか」を教育するために書かれたもので、日本においては帝王学のテキストとして、北条政子や徳川家康が愛読していたそうだ。この中に「創業(草創)と維持(守成)のどちらが難しいか」という言葉が出てくる。結論から言えば「維持」の方が難しい(と考えるべき)と結論付けている。

◆創業向きと維持向きの人材は違う
『貞観政要』にもあるが、創業向きの人材と維持向きの人材は異なる。創業者はいわゆる立志伝中の人であったり、強烈なカリスマを持つトップが多い。そしてその周囲に普通ではない豪傑サラリーマンが集い、語り草になるような猛烈な働き方や伝説的な活躍をしたりする。そうした人材が創業向きである。私の乏しい社会人経験でも何人か知っているが、何時寝ているのか?と思うような24時間仕事に遊びに全力を尽くしているタイプが多かった。大抵、優秀で個性的でもあり、指示待ちではないというより、指示されることが嫌いである。外向的、情熱的で癖が強い。三国志で言えば、曹操の周りの豪傑たちと言うところか。
しかし、企業がある程度まで成長した後はそうした豪傑はあまり必要がなくなる。豪傑たちが作り上げた仕事を業務として仕組化し、それを維持・発展させる段階になると、むしろ「常識人」の出番となる。イメージとしては学校秀才でTPOを弁えたある意味で官僚的な人材が必要となってくる。これらの人々は指示されることにさほど違和感がない。混沌よりは秩序を、試行錯誤よりは効率化が重視される。この状態になると豪傑の持つ「強引さ・無秩序さ」は効率化の妨げになるため、あまり適合しなくなる。

◆創業期と維持期の間
さて、会社がある程度の規模になったり、ある程度存続できたとき、維持のフェーズは必ずやってくる。企業に限らず、黎明期から成長期を終えた組織体には必ず移行期が来る。例えば、私は子供の頃から地元商店街の町おこしの一環の「阿波踊り」の連(チーム)に参加していた。黎明期は商店街のオヤジ達がお囃子を、その子供たち(私もその一人だ)が踊り手をしていた。阿波踊りとしてのレベルはマチマチであったが、飛び入りも可だったし、基本的に盛り上げればよいというものだった。しかし、その二世たちが主催している現在は大所帯になり、連員の管理や練習の管理などが必須になり、良くも悪くも官僚的になる。阿波踊りとしてのレベルはかなり高いレベルで均質化している。初期のオヤジ達のようにふるまうと、効率化のベクトルと合致しないため、あまり歓迎されないだろう。これは組織の成長に伴う必然のように思える。

この移行期をスムーズに乗り切る企業もあるだろう。しかし、試練の時を迎える企業も非常に多い。『貞観政要』もまさにこの移行期の君主(リーダ)と臣下(メンバ)をテーマにしている。それが帝王学のテキストとなるからには、この移行期の問題はどの組織にも通じる普遍性のある問題なのだろう。

◆永久ベンチャーは成立しない
この移行期に特有の状態として、上層部(経営層)は創業期の立役者、ミドルは創業期の若手で構成されている。従って、創業期の陽性の無茶苦茶を成功体験として持っている。しかし、すでに大きく成長したその企業に入社してくる新人や若手は「ベンチャー」と見做して入るわけではない。その名声にふさわしいだけのある程度確立した企業だと考えて入社してくるわけである。これらの人々は会社に対して勝手に貢献するような人々ではない。良くも悪くも豪傑の上層部、その豪傑についていくだけの能力と野性味があった野武士的なミドル層に対して、学校秀才的な新参者は的確な指示がないと動けない。当り前である。その名声に引き付けられるのは、良くも悪くも安定志向の人々である。そのような安定志向の彼/彼女たちは「維持期」向けの人材である。
豪傑や野武士は「最近の若手は自主性に乏しい」「マニュアルばかり求める」「俺たちの時は勝手に仕事を探して貢献したもんだ」「人事は何を見ているんだ」等と嘆く。しかし、残念ながら当たりまえなのだ。十数年前の自分たちのように自主性に富む人々は大企業なんかに入ってこない。起業しているかベンチャーに行くだろう。さらに自分たちの成功体験が強烈なので、事情のあまりわかっていない若手が「勝手に」仕事をすれば烈火のごとく怒ったり、挙句にマイクロマネジメントに陥ったりもする。にも拘らず、自分たちのノウハウをマニュアルやルールとして文書化していないので、若手は何を基準に動いたらいいかわからないのだ。そして人事だが「自主性に富む≒忠誠心が低い」のは当然であるため、そのような人材を回避するものである。おかしな癖のある新人を採用して現場に文句を言われたくもあるまい。従って、創業者や豪傑たちの夢である「永久ベンチャー」は殆ど絶対に成立しないのである。
「永久ベンチャー」とはご想像の通り、「創業期の勢いと活性度のまま成長を続ける企業」のことだが、そのようなことにはまずならない。ほとんど法則のごとくならない。この移行期間はその会社が非常に不安定になる。これは上位層が自分たちの理想を諦め、中間層が仕事を標準化・マニュアル化することを受け入れるまで続く。

◆老いてもはや諫めを入れぬ王は貧しい羊飼いの子供にも劣る
しかし、これは創業メンバにとっては非常に難しいことのようだ。私自身も駆け出しの経営者だが、己一代で大企業に成長させたような経営者達はやはりものすごい。その実績/姿勢/カリスマ性は私のようなすれっからしでさえ尊敬に値すると考える。お世辞ではなく、人並み外れた力量があったがためにそこまで会社なり組織を成長させたわけである。だが、その強烈すぎる成功体験は人を全能感に陥れる。この全能感を制御するのは普通の人間には難しい。周囲には耳障りのよいことしか言わないYESMANばかりが集まり、会社に関することに限定されるとは言え、意のままにならないことはなく、マスメディアなどでも賞賛されという状態で正気を保つことはできない。だからこそ「帝王学」が必要になる。「帝王学」は「人をどう使うか、意のままに操るか」と一般に勘違いされているが、実際には真逆で「いかにして自分の全能感を制御して正気を保つか」という方法論に近い。旧約聖書の時代にも「老いてもはや諫めを入れぬ王は貧しい羊飼いの子供にも劣る」という言葉がある通り、これは人類普遍的なテーマらしい。この帝王学を身に着けえなかった帝王は必ず、身内に裏切られて滅ぶのである。織田信長しかり、隋の煬帝しかり、そしておそらくスターリンも。そしてそれは「是非もなし(良い悪いはない・仕方ない)」なのである。それを直接知っていた徳川家康は信長(や独裁者としての秀吉)を反面教師として強い危機感の下『貞観政要』を学んだのだろう。

◆現場の軍師として/経営者として
コンサルタントとしてまさに移行期にあるクライアントの企業の現場を支えることがこの一年のミッションであった。そのミッションを通して一番強く感じ、考えたことを今回は整理した。ここでまとめた問題の一つの解決策として『貞観政要』のような帝王学を次世代のリーダクラスに紹介・解説するようなコンテンツを作成し、研修の形で展開することがあるかもしれない。勿論、『貞観政要』のような名著を私が書けるわけではない。しかし、そのロジックを紹介し、換骨奪胎して現代日本人が理解しやすいようにまとめることはできるかもしれぬ。少なくとも二年目はこのコンテンツ作りとソリューション開発にも力を入れていきたいと考えている。



2018年6月8日金曜日

厄介で不幸な呪い


今月は決算月である。コンサルタントとして独立してからほぼ1年が過ぎた。2017年の7月10日に独立したので、12か月目に突入したという事になる。この1年間の振返りは、一周年を迎えてから書くとして、サラリーマン時代から大きく変わった部分を書いてみたい。


◆厚切りジェイソン
いわずと知れたテラスカイの役員にして、お笑い芸人の厚切りジェイソン氏。本名はジェイソン・デビッド・ダニエルソンらしい。さてこのジェイソン氏のお笑いではない言動はなかなか破壊力がある。「歯に衣着せぬ」というか非常に率直に本質を突いてくる。さすがに頭脳明晰である。
サラリーマン時代、ジェイソン氏の言動が苦手であった。いや、なかなか書くのに躊躇するが、その自由さに「嫉妬」を感じていたというべきであろう。
よく彼は「炎上」する。いわく、

『「空気を読め」という表現がよくされますが、一体どういう意味でしょう?「空気を読め」ですよ。空気は明らかによめませんよ。でもこれにより、自分を表現することができなくなっているのです。』

『ええ、心から純粋に人生を楽しんでいそうな人は非常に少ないと感じているよ。電車乗ると全員疲れている、イライラしている。笑顔がない毎日。
いつも周りはどう思っているかを優先している人しょっちゅう見るけど。
幸せになってもいいんだよ。』

『日本の一般企業では残業しないと大した給料をもらえないというのは、仕事を効率悪くやる人にご褒美をあげている』

『残業大国である一方、日本の非工業業界の生産性が先進国の最下位。米国の半分。WHY? Why is hi-tech Japan using cassette tapes and faxes?』

◆イラつくのもわかる
イラつくのも今ならわかる。批判する日本人の苛立ちも、ジェイソン氏の苛立ちも。「本業」を聞かれるのが嫌いだというジェイソン氏。そして「日本から出ていけ」という批判する側。批判する人々の脳みその程度によって、批判の仕方は異なるが、そのロジックはよく理解できる。

まず批判する人々は絶望している。雁字搦めになっているが、それが自縄自縛とも薄々気が付いている。例えば、普通に勉強して、普通の大学に入って、或いは専門学校に入って、ただ不景気だという理由で、或いは「新しい生き方」などの甘言に幻惑されて、非正規雇用で社会人生活を送っており、将来にも展望を持てずにいる。じゃあ海外で働くかというと言語障壁が高すぎて、或いは、英語が少々できても、それだけではダメと思い込んでいて、己をダマしダマし生きているような絶望感だ。たとえ、非正規でなくともシュリンクする市場、内部留保をため込むしか能がない経営者の支配、それをひっくり返すほどの力量がない己に絶望していたりする。

そういう時の思考は簡単だ。「俺も/あたしも我慢して不幸を生きているのだ。ここはそういう国だ。それがイヤなら出ていけ。」或いは、「不幸は構造的な宿命なのだ。一生懸命に人生を諦めようとしているのにうるせえな。」である。勿論、同時代、同世代にもそうでない人がいることぐらいは理解しているし、不幸でない人々と恐らく紙一重の差しかないことも理解している。だが、もう絶望して気力が萎えているのである。ほとんど成功体験がないのだから仕方がない。クソみたいな仕事をクソみたいな上司の下、それもなんの見通しも、独身の異常に多い特にアラフォー世代にとっては、家族の慰めもないまま、イヤイヤながら生活のためだけに働いているのだ。少なくとも自覚としてはそうだ。違うとは言わせない。私もそうだったのだから。

私大文系を卒業し、斜陽産業の情報子会社に新卒で入社し、そこから最大手の外資系コンサルティングファームへ転職し、ベンチャー系人材会社から、日系の一部上場企業でのサラリーマン生活をしてきた。氷河期世代としては、まずまずのキャリアではあろう。だが、その私でさえも、上述のように絶望していた。違うのは、妻に恵まれ「独立への勇気が持てた」というだけである。

さて、ジェイソン氏の苛立ちはこうだ。
「能力が低いわけでもないのに、思い込みで委縮して、自分で不幸になっている。WHY?! Japanese people!」
そしておそらくジェイソン氏は日本が好きだ。それも今ならよくわかる。好きでなければ、わざわざタレントとして、或いは経営層として好感度が下がる可能性のある「炎上」を自ら招き寄せるようなマネはしない。それが分からないほど馬鹿であるはずがない。

私の父は中卒のケーキ職人だが、小さなケーキ屋を立ち上げ、細々とではあるが立派に家族を食わせてきた。貧乏か金持ちかで言えば貧乏にはいるし、すでに店も畳んでいる。しかし、店を辞めた後も職人なので特に定年などもなく、いくつかのケーキ屋で働いて、76になった去年ようやく引退した。よく考えると「良い大学、良い会社、定年まで失敗しない」という生き方は少し前まで全く一般的でもなければ、唯一の正解でもない。中卒だろうが、なんであろうが、とにかく生きて、やりたいと思ったことをやり、家族をつくり、食わせるのは、少し前までできていたのだから、我々ができない道理はないのだ。ただ、中卒で苦労した父の世代は、大卒大企業エリートが輝いて見えていたにすぎない。だから、今現役の我々に「いい学校・いい会社」と言っただけである。要するにケーキを食べたことがないから、ケーキがものすごく美味しそうに見えていたにすぎないのである。

◆自分自身への呪い
「僕たちはガンダムのジムである」という本があった。残念ながら未読であるが、タイトルはなかなか秀逸だ。つまり、主役級のスーパーなロボットであるガンダムではなく、我々凡人は量産型で数しか取り柄のないロボット程度であるという事だろう。ガンダム世代の私にはよくわかる。そして、ある程度大人になったガンダム世代はそういう「ジム」「ザク」が世の中を回しているという事に気が付いている。

だが、本当だろうか?その比喩は本当に適切だろうか。

確かに我々は凡人ではある。しかし、凡人には「やりたいことをやる資格がない」という思い込みは何ら根拠がない。また「やりたいことをやって失敗するリスク」がよく語られるが、やりたいことなのだから、天才的に能力を発揮するかもしれないし、失敗しないかもしれない。失敗したところで、失敗と再起不能は同義ではない。別にジェフ・ベゾスやマーク・ザッカーバーグ、ジャック・マーのような人々だけが起業家というわけでもない。彼らのようになることが、必ずしも成功ではない。今は老いてしまった商店街のオヤジどもだって、かつては立派な起業家だったではないか。

私はそのように考えることで独立した。独立してみれば、様々なご縁や事柄が重なって、どうにか一年食えている。随分覚悟して独立したのに、経済的にもワークライフバランス的にも日本の一流企業のサラリーマンよりずっと良い。勿論、運の要素も大きいだろう。だが、少なくとも軸となるスキルと経験があれば、とりあえず食うには困らない。理由は実に単純である。つまり私などよりずっと優秀な人々が、独立起業を恐れてサラリーマンのままなので、ライバルが少ないのだ。謙遜ではない。実際にそうなのである。この十数年、日本は廃業が起業を常に上回っている状況である。起業が難しいからではない。後継者探が探せなくて経営者が事業継承に失敗し、年齢と共に会社をたたんでいるだけである。ただそれだけのことなのだ。

だが、私は知っている。日本のサラリーマンのリスク回避は骨がらみである。そのリスクとは、食えなかったらどうしようということもあるが、周囲と異なる対応をした結果失敗した時につるし上げられることの恐怖である。山本七平の議論によれば、実際に日本においては「空気」が意思決定をする。従って多くの日本人は自分で意思決定することに慣れていない。そして、集団の心理が「空気」を創り出すので、「空気」が決定したことはだれも責任を持たない。名目上の責任者さえ、「あの空気ではああするしか仕方がなかった」「あの時の空気を知らない奴に何が分かる」と言い出す。

私は20年程社会人生活をしているが、重大な決定について「空気」以外の意思決定をほとんど見たことがない。実は「空気」による決定と「本質的かつ外的なリスク回避」はほぼ無関係である。ただ、失敗の責任を誰も取らされたくないだけなのだ。それはほとんど呪いである。いや真正の「呪い」そのものである。そしてその呪いに個人も罹っている。転職や独立などという人生における重大な意思決定、それは「空気」が決めてくれる訳もない。だからできないのだ。会社の仲間だけではない。家族や親類、友人含め、それで失敗した時に「ほら見たことか」「上手くいくわけないだろう」「家族の生活をどうしてくれるんだ」という吊し上げの場(裁きの場)に立たされることの恐怖に勝てないのである。

そしてジェイソン氏の言動が腹立たしく感じるのは、彼が日本人でないが故に、正確には日本で育たなかった故にその呪いにかかっていないからである。彼は素直に考えたことを口にしているに過ぎない。「空気を読め?空気なんて明らかに読めないでしょ」である。勿論、アメリカには別の呪いがあるのだが、それはアメリカで育ち、住まないと恐らく肌感覚で分からない。

◆呪いを解くには
神代の昔から、自分で呪いを解く方法は一つしかない。それは勇気である。勇気をもって呪いに反することをすることである。別にご先祖様に感謝とか「スピリチュアル」な話をしているわけではない。呪いの本質は「社会も含む他者からの思い込みの強制である」それが内面化(血肉化)されてしまうと心理学的には「抑圧」、民俗学的には「呪い」と呼ぶだけである。私の経験では、社会よりも肉親の呪いの方が強い。その呪いは一見「教訓」の形をとっている。そして呪い手たる肉親、多くは親だろうが、呪っている自覚はない。だが、それは呪いなのだ。「レールを外れたら地獄が待っている。集団に従え。」という。
しかし、これを読んでいるあなたは大人だろう。大人としての勇気をもって、その呪いに打ち勝ってみてほしい。そして実際には、吊し上げなどまずされない。元の会社のメンバーは、呪いの真っただ中にいるのでそれどころではない。家族も不安なだけなので、食えることさえわかれば、安心してくれる。そしてきっと言うであろう。「独立/転職/移住おめでとう!」と。呪いの反対語は祝福である。

勿論、保証はされない。だが、会社が何を保証してくれるというのか。一年やってみた実感として、リスクは特に変わらない。寧ろ、自由な分、リスクも少ないように思う。

勇気をもって踏み出すものに幸いあれ。

2018年6月1日金曜日

自省録的世代論


こだまする「ロスジェネが怖い」という悲鳴という記事を読んだ。あまりに厳しい就職活動や理不尽な社会人生活を潜り抜けてきたロスジェネ世代の先輩社員が売り手市場で入社してきた20代にとって恐怖という内容である。さもありなん。いずれそういわれると思っていた。私はロスジェネど真ん中の1999年(恐怖の大王っぽいな)に社会人生活をスタートした。

私大文系の哲学科という何とも微妙な学歴ではあるが、200社ほど資料請求(懐かしい)して、30社ほどドサ周りをしてどうにか一件内定を頂いたような世代である。周囲も今ではだいぶ出世しているものもいるが、似たような学歴の友人も就職浪人をして、どうにか翌年公務員に滑り込んだりしていた。ソコソコの大卒であっても、リテラシと根性と、友人・家族に恵まれないと、当時喧伝されていた「派遣社員という私らしい選択」のようなものに流されたり、就職浪人を何年もやってしまったり、大学院に残っても「ポスドク」として飼い殺しにされてたりした。いや、過去形ではない。そうなってしまった同年代は今も苦しんでいる。

私自身が若者から見て怖いかどうかはわからない。だけれどもあくまで私の周囲限定ではあるが、世代的な特徴はいくつかあるように思える。なお、女性はサンプルが少ないので論じない。タイトル通り「自省録」であり、男性である私と同年代の男性の話と思って(お時間があれば)読んでいただきたい。また、正確にはロスジェネの中でもサバイバーというか、どうにか「何者かになれた」人々の話である。

まず、我々(私)の人間関係のベースは性悪説であり、評価は結果ベースである。必要とあらば協調もするしチームプレイもできるが、基本的には他人を他の世代の人ほど信用していない。上の世代や下の世代と仕事をして驚いたのだが、どちらも他人を楽観的に信用するように見える。下の世代はまだ分かるが、50歳のオッサンの部下について55歳の部長が「まだ成長する!」と言い切ったのには驚いた。私の目から見ると、もはや擦り切れており、柔軟性も失われているその50歳が成長するとは思えない。にも拘らず、その楽観視と無邪気な信頼が信じがたかった。「成長などするわけないでしょう。いい年をして。」当時の私はそう部長へ言ったが、まあ聞き入れるはずもない。寧ろ可愛がっている部下を侮辱するなというようなことを言われた。いやいや、私もあんたの部下なのだが。うまくいくはずもないと観察していたが、案の定、その案件は失敗した。原因はそのオッサンの協調性のなさである。それを冷ややかに眺めているのは私と私の同世代であった。

では我々は無能かというと、私の同世代たちは結果ベース自己評価するのでそれほど無能ではない。大体において営業であれば常に上位の成績を残してきたし、技術職や企画職であれば、新しいものを作り拡げてきたようにとらえている。とはいえ、後述するように、ロイヤリティが低いので会社や上位者からの評価はあまり高くないケースが多い。寧ろ、顧客からは高い信頼と評価を得ている人が多いように思う。尤も友人の中には若いころからチームリーダとして周囲を引っ張り、評価され、出世しててきたのもいる。しかし、彼をして曰く「ご機嫌をとるのも仕事の内」であり、「頭の良くない上役がお世辞一つで思う通りになるのは愉しい」らしい。
基本的に仕事はまあできる。そうでなければそもそも仲間に入れてもらえなかったのだから。

我々は会社をコミュニティとして認識していない。従ってロイヤリティは低い。採用した側からすると拾ってやった訳だから感謝されてよいはずと思われるかもしれない。しかし、丁度、山一證券や千代田生命がつぶれた時期に就職活動や新社会人となったので、そもそも会社組織の永続性を信じていない。また、大企業も事業継承が進み、サラリーマン社長が増えてきた時期とも重なっていて、いわゆる経営者も「保身と私利私欲のタダの人」くらいにしか認識していないので、忠誠心の持ちようがない。勿論、そうでない経営者もいるが、それは例外であるがゆえに尊敬するというところである。

では、後輩への接し方はどうだろうか。私を含め、見ていると総じて親切ではある。中でも「こいつはいける」と判断したタイプには色々と教え込む。逆の見方をすると「こいつは使えない」と判断すると「親切だが優しくない」先輩でしかなくなる。人の見切りが早すぎる傾向はあるかもしれない。

まとめると、結果にこだわるので仕事はできる。同時にあまり組織も人も信用せず、悲観的であり、忠誠心が低い。若者から見るとすぐに見切られて、心のこもらない指導がなされてしまう。或いは倒れるまで熱血指導されてしまう。何しろ、自分たちが本当に倒れるまで働かされたのだから。(うつ病を発症した友人も多数いる。ほぼ全員が人間関係と働きすぎが原因だ。)
たしかに、これは怖い。あまり関わり合いになりたくない人々かもしれない。勿論、こんなのは大雑把で主観的な世代論なので、その正反対の人もいるだろう。ただ傾向として私が私自身を含めて観察したところを記したのみである。

さて、ここからは自省である。果たしてこの状態のままでよいかというと、あまりよくはない。突き放してみると「承認欲求」があまり満たされてないにも関わらず、「所属欲求」にも期待しないので、なかなか厳しい状態ではある。一つの解決策は自分で商売し、クライアントから対価と感謝を頂いて承認欲求を満たすということになるだろう。すでにこれは私自身が実行している話である。所属欲求は精々がところ「日本人である/社会人である」くらいで良しとしよう。

しかし、年齢のせいもあるのか、我ながら非常に頑なで決めつけが多すぎるように思う。ある範囲内では割と柔軟に話ができるのだが、大嫌いな「新自由主義」「弱肉強食」を刷り込まれているせいか、厳しい言説をよしとし、安易さや甘さが少しでも見えると否定しはじめる。というより、叩き潰しにかかってしまう。これは不幸な脊椎反射であろう。理想それ自体を絵空事として、或いは自分には関係ないこととして軽んじ続けた結果、理想論=戯言の等式が脳内に埋め込まれてしまっている気がする。例えば「世界を変える」的言説にはたいてい虫唾が走る。反射的に「目的は何か」「何をどう変えたいのか」「どうやって変えるのか」「変化には必ずプラスとマイナスの影響がつきものだが、マイナスについて考えているのか」などと問い詰めたくなってしまう。

あたかも偽善者を嫌うあまりに自らが露悪趣味という名の偽善者になってしまっているかのようだ。否、そうなっている。
リアリストであることはよい。しかし、行き過ぎて厭世家になりがちである。それは逆立ちした理想主義者と同じことである。

信じることはできていなくとも、他者の掲げる理想や希望をもっと尊重できるようにならねばならぬ。それは己と周囲の幸福のためにプラスであろう。どこかで人格形成にしくじっているロスジェネとして、それを成長のベクトルとしていきたいが、具体的な施策や行動にまで落とせずに困っている。取り敢えず、心の中で「ケッ」と吐き捨てる回数を減らそう。心の中で「クソが」と中指を立てる回数を減らそう。今のところ思いつく施策はこれぐらいである。
長くなったので今回はこの辺で。