2017年10月26日木曜日

敗北者はだれだったのか。

2017年10月の衆議院議員選挙が終わった。蓋を開けてみればこれは誰がどう見ても単独過半数を制した自民党の大勝利であり、公明党と合わせ政権与党だけで憲法改正発議が可能な2/3を制したことになる。しかし、誰かが大勝利したということは、誰かが大敗北を喫したということである。勿論、単純には野党ということになろう。しかし今回の選挙において、野党が大敗北を喫したという印象は少ない。というよりも敗れるための条件さえ満たせなかったというように見える。小池百合子というジョーカーの登場により、野党第一党である民進党は、希望の党、立憲民主党、無所属という形に分解し、敗れる主体にさえなれなかった。せいぜい「小池百合子が失敗した」ぐらいの印象しか残らないというのが正直な感想である。

小池百合子の「希望の党」は結局のところ、橋下徹の「維新の会」の二番煎じであった。橋下徹は弁護士でありながらテレビタレントという知名度を利用して大阪の府政を混乱させた挙句、国政に関与しようとし、自分に風が吹かないとみるやもはや誰も話題にしない「大阪都構想」を畳んで、楽屋に引っ込んでしまった。大阪都構想にせよ、役人を悪者に仕立てるやり方にせよ、基本的には「劇場型」の人気取りでしかない。そんなことは橋下徹はわかっているが故に、効果が薄ければ、傷口が広がらないうちに撤退したということであろう。「ふわっとした民意」をメディア経由で操ろうとして失敗したというわけだ。橋下徹はあれでも法曹界出身だが、小池百合子はその橋下徹が頼りにしつつ共犯関係を構築しようとしたマスメディア出身である。橋下の失敗を分析した上で、もっと上手にマスメディアを利用できると算段したのかもしれない。アラブ式のはったりも身に着けた小池百合子ならあり得ないことでもないと想像する。

現実にはただ野党を割って、図らずも整理整頓しただけで終わった。「鉄の天井」などと言って社会構造と伝統に責任転嫁しようとしているようだが、イタリアのメディアの言う通り「亡命中の女王のボヤキ」以上のものではない。一方、安倍首相はなかなかの喧嘩巧者であることも証明した。絶妙なタイミングで解散総選挙を仕掛け、一時は脅威になりかけた小池百合子を(恐らく結果的にではあるものの)野党解体の鉄砲玉として使い、野党の自滅や台風すらも味方につけて大勝利を収めたわけである。倫理的な判断は脇に置いて見事という他はない。




さて、野党が敗北するための主体足りえることさえできなかったのだとすれば、今回の選挙は一体だれが敗れたのであろうか。それは恐らく「反体制としてのマスメディア、とりわけテレビと新聞」であろう。1990年代までマスメディアは「錦の御旗」を持っていた。それは「反体制」というスタンスである。実効性や責任は脇に置き「ともかく政府を叩く」ことで、一定以上の支持を得てきた訳である。マスメディアももちろん正しい意味で商売だから顧客が「何を見たい・読みたい」かを考えて、商材である「言論」「映像」などのコンテンツを提供する。1950年代から1990年代の長きにわたって「反体制」は「鉄板のコンテンツ」、要するに売れる商材だったわけである。

それほど長く「反体制」という商材を商って、しかもそれが必ず売れるとなると、いつの間にか反体制は商材ではなく「信念」に変質していく。「反体制」が当たり前となり、それが社内や社会への影響力の源泉であり、核(core)になっていく。その影響力はかなり肥大化した。1990年代のテレビ朝日「ニュースステーション」やTBS「ニュース23」あたりを頂点として「第四の権力」として確立していった。選挙の洗礼を受ける政治家と異なり、メディア企業の経営層はそう簡単に交代することも弾劾されることもない。そして「反体制を売り物にする第四の権力が、自家中毒に陥った挙句に腐敗する」という状態が現在まで続いているということなのだろう。違うとは言わせない。コンサルタントとして色々な企業を見てきたが、この構造になるのは企業の成長に伴う不可避の現象である。要するに「上には正しい情報が届かず、下は手段が目的になる」という「大企業病」の一変種である。

第二次世界大戦で日本が「道義的にも誤っていた」ということにしたい戦勝国、とりわけ米国のGHQの思惑。そして戦前に国賊として取り締まられてきた左翼勢力の怨念。社会主義・共産主義の国々(のプロパガンダ)に対する憧憬や期待。それを許し、甘えさせるだけの自民党の力量。右肩上がりの経済。そうした中で「反体制」をビジネスの核としてきたメディア。今回の選挙はそのメディアとうとう支持を明示的に失った日であっただろう。そう、大敗北を喫したのは「反体制」というビジネスをしていたマスメディアだったのである。「商材」が「信念」に変質してしまっていた彼らの選挙後の迷走というか言い訳というかアノミーっぷりには失笑を禁じ得ない。田原総一朗の暴走あたりがもっともそれを象徴しているだろうか。

マスメディアは焦っている。これまで「反体制」という不思議な既得権益の中で商売をしてきた。所謂サヨクで知られる内田樹が「テレビというのは視聴者もスポンサーも巻き込んだ一大ビジネスである。そうであるが故に、お茶の間の静謐とスポンサーの利害を守らねばならず、従って水で薄めたような無難な意見しか表明できない」という旨をどこかで書いていたが、実際には「反体制」であれば、ほとんど何を言ってもOKというスタンスであることが今回の選挙における自民党のネガティブキャンペーンと希望の党への右往左往で実証されてしまった。一定以上の知性と経験(普通の社会人)ならば、これは「反権力・反腐敗という図式の中でで腐敗したどうしようもない業界」であることを否が応でも理解せざるを得なかっただろうと思う。さらに、インターネットという玉石混淆ではあるものの、多様な意見を読むことのできる空間がマスメディアの意見を相対化する強力な触媒になったのは間違いない。

そう考えると、今回の選挙で大敗北を喫したのは「笛吹けども踊らず」となった有権者に見透かされ嫌われたマスメディア(新聞・テレビ)だったのではないだろうか。彼・彼女らが「腐敗した第四の権力」として有権者の審判をくだされたというのが、今回の選挙の結果だったのではないかというのが正直な感想である。


田原総一朗には申し訳ないが、先日、常駐先のビルにある蕎麦屋で一緒だったことから、勝手に上述のスタンス代表していただくことにする。アメリカに構造的に甘えられる立ち位置で体制批判さえしていればいいという時代。その中で青春どころか社会人の大半を過ごしてしまった世代は、もうどうしようもあるまい。言い換えれば死ぬのを待つしかあるまい。そして、その彼・彼女らに牛耳られているメディアの中枢部も、あと10年程度、あの世代が死滅するのを待てば少しずつでも状況は改善するであろう。具体的には1940年から1950年生まれの世代のサヨクのことである。もはや「Love & Peace」という標語はただの無責任と能天気を表す標語でしかないことを彼らは死ぬまで理解できないであろう。メディアの「核」がどんな形にせよ変化するのは、そう先のことではない。そしてそれは非常に望ましいと私は考える。

2017年10月24日火曜日

子供の教育

先日、我が家の一人娘が4歳を迎えた。今は保育園で無邪気に遊んでいるが、そろそろ学校教育を中心にどうしていくかが気になり始めている。近頃は厚労省管轄の保育園でさえ英語教育や空手などを取り入れていてびっくりする。娘も時々私が聞き取れないレベルの発音をしたりして、親としては喜んでしまったりする。勿論、幼児期特有の耳の良さでしかないことぐらいは知っている。単なる親バカである。



実際に親になってみると「子供にはもって生まれた特質がある」ことを実感する。娘は比較的大人しいが、それでもふざけるのは大好きだし、一人っ子のわりに周囲の友達に引きずられたりする。運動は嫌いではないようだが、パワーとスピードはあるのに敏捷性に欠ける。この辺りは私に似てしまってちょっと申し訳ない。娘の友達や従兄弟たちを見ていると当然ながら娘とは全く違う性質を持っている。落着きはないが、娘と対照的にすばしっこく、バランス感覚が優れている子。或いは、親分肌で周囲をまとめる力のある子。

こうした「性質」は教育とは何の関係もないだろう。詳しいことはわからないが遺伝的要素など生物学的なことに起因しているに違いない。話題になった双子の研究などによると、教育や環境などによる後天的な要素は先天的な要素に比べてあまり、その子供のその後に影響を与えないらしい。まあ、それはそうだろう。子供が真っ新な白紙であり、教育しだいでどうにでもなるなら、少なくとも先進国では賢者ばかりになるはずだ。勿論、実際には「上智と下愚は譲らず」の言葉通り、2割ぐらいの賢者と愚者、8割程度の「普通の人」という分布は変わらない。そのように考えると「大賢者」を教育で作ることは諦めたほうがいいだろう。私自身の実感としてもハードウェアとしての頭の良しあしは生まれながらに決まっており、後天的にどうにかすることはできない、と考える。

では「あらゆる教育は無駄」かというとそんなことはないだろう。ハードウェアの性能はどうしようもない。しかし、例えば「努力には意味がある」、「知見を広げる事が人生を楽しく、豊かにする」ということを実感させたりすることで、物事へのスタンスを身に着けることはできる。その手伝いぐらいは教育にもできるだろうと考えている。「手伝い」としたのは、結局、本人の資質に左右される部分が大きいからだ。「馬を水飲み場に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない。」の言葉通り、水を飲むか否かは本人次第である。ここについては我が子を信じるしかあるまい。

自分自身を振り返ると、両親のサポートという観点で、いくつか「もう少し何とかなったな」というポイントがある。私の両親が特段なにか問題があったとは思わないし、感謝している。しかし、自分もまた人の親になったという点で考えてみると、もう少しサポートすれば、もう少し世界が拡がったかもしれないという出来事があった。一つは小学校高学年の頃、交換留学生の話があった。カナダのケベックが私の出身地と姉妹都市かなにかになっており、留学生の候補に私ともう一人が上がったのだ。結局、私は行かず、もう一人の女の子が行ったのだが、私が行かなかった理由というのが、「家が狭くて恥ずかしいので、交換留学生を受け入れられない」という主に母の反対である。当時は「ちょっと残念」くらいだったが、今にして思うと、随分勿体ないことをしたなとも思う。例えば、家が手狭なら、隣の区に住んでいた祖父母の家に来てもらうくらいの知恵は働かなかったのかとも。とは言え、両親を責めても仕方がない。そうではなくて、そういうタイミングの時に、親としてサポートするだけの力と見識を持っておこうということである。

また、結果的には小さなコンサル会社の経営者になってしまったが、幼少期から飛行機が好きで「パイロットエンジニア」になりたいと思っていた。案外、身体能力も高く、まあ、勉強も人並みよりは出来、視力も未だに2.0ということで、できない理由はとくにない。エンジニアには後からでもなれるのだから、まずはパイロットを目指せば、それは(もちろん、色々な曲折はあるにきまっているが)実現可能性はそれなりにあっただろう。エンジニアはともかく、パイロットはあり得ただろうなと思う。しかし、当時の両親はそれを「冗談の類」として受け止めていた。両親が悪いわけではない。おそらく、「いい学校→いい会社」がよいというその時代の社会規範にとらわれており、一人息子がそこそこ「頭がよい」のに、そのような「特殊」な道を歩ませる意義を見出せなかったに違いない。

それは全く無理からぬことである。人はある時代のある場所に生まれ育つ。それは宿命であり、逆らうことはできない。しかし、それでも我が娘が、私には理解しにくい夢を持ったとしても、それを真正面から受け止めて、検討、サポートような親でありたいと思う。家庭教育でファームウェアとOSを形成し、学校教育は最低限のアプリケーションをインストールする場である。教育について親ができるほとんどすべてのことは、選択肢を提示すること、知見を広げるチャンスを与えること、漫画でもいいから読書など最低限の習慣を身に着けさせることに尽きるのではなかろうか。


とりとめのない文章になってしまったが、子供の教育について考えてみた。

2017年10月17日火曜日

ファシストはリセットボタンがお好き

昭和50年生まれなのでファミコン世代ではある。小学生の時分には買ってもらえなかったので、よく友達の家で遊んだ。ロールプレイングゲームのようなものはそうはいかないので、中学生になって中古のファミコンを手に入れ、ウィザードリィやドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーなどを夢中で遊んだものだ。行き詰ると「リセット」ボタンを押したくなる。攻略本などではリセット前提の方法を書いてあったりして、今思えば「ゲームの設計思想」としてどうなのかとも思う。

別段、ゲームの影響がどうこうということを書きたいわけではない。ただ、ゲームのおかげで、坂本龍馬の「日本を今一度洗濯したく御座候」のような願望を「リセット願望」と表現することができるようになって、便利になったというだけである。



少し考えると分かるが「リセット願望」はかなり子供っぽいものだ。子供っぽいだけに「変身願望」と同様かなり根源的であったりする。洋の東西を問わず、リセット願望は様々な出来事の原因となってきた。例えば、バーグが口を極めて罵ったフランス革命はまさしくリセット願望を具現化したものであった。「保守思想の父」などと呼ばれるバーグの議論は結局「リセットしたらゴミじゃないものまでゴミ箱に捨ててしまうだろう」ということに尽きている。英国から 彼の目でフランス革命を眺めると「狂気の沙汰」にしか見えなかったということだ。革命の理想はどうあれ、持てる階層からなにもかも分捕って、持たざる階層に配る。そして、わずかでも異を唱えれば処刑される。そして新たな支配階層は「支配」をしたことがないものだから、際限なく腐敗し矮小化する。そして反革命が起こり、ナポレオンという軍事的独裁者が台頭し、王制が復活し…と大混乱。あたかも人類史上の一つの「最高の瞬間」のように記憶されているが、私にはそうは思えない。

理想はあくまでも「理想」であって、たとえて言うなら虹のようなもの。虹を捕まえることは絶対できないけれど、虹それ自体は確かに見える。理想とはそういうものであるという大人なら誰でも知っていることである。しかし、なんらかの原因で大人の視点を手に入れられなかった人には「だってそこに虹がある!」以上のことがわからない。ユートピアとは「どこにもない場所」という意味である。ネバーランドも字義通りであろう。しかし、目の前の現実を全否定して「どこにもない場所」を現実化しようとすると大抵の場合、「地獄」を現出してしまったことが歴史上には何度もあった。その根底にあるのが、「リセット願望」であろう。

ユートピアを創り出そうとしてディストピアが出来てしまった例はいくらでもある。前述したフランス革命後の革命政府による恐怖政治もそうだし、ドイツ第三帝国(いわゆるナチス)もそうだ。ファシストイタリアやロシア革命後の共産党独裁もそうだし、文化大革命後の毛沢東による恐怖政治も同じである。どれも閉塞感にとらわれた多数派の恨みつらみを燃料とし、リセット願望に誰かが着火した。それは「何もかも一気に変えて、ユートピアを創ろう!」とした善意から出ている。中産階級にせよ、インテリ層にせよ、こうしたリセット願望にとらわれる人は多い。この時に出来上がる「リセット願望の空気」を束ねて独裁者が登場する。近年はファシストと呼ばれるが昔からいる。古代ギリシャでは僭主とよばれていた。なお、ファッショとは「束」の意である「ファスキス」からきている。

ファシストは野心家で有能であり、本来は「善意」の人である。また強烈な信念を持っていたりする。彼らは行動力があり、その狂信ともいうべき自信たっぷりの態度や言動から人を引き付ける魅力がある。そして、必ず革新側、左側から登場する。なぜ、保守側、右側からは登場しないのか。理由は簡単である。革新は「歴史を否定し、己が歴史を作る」と考えるからだ。人間社会を自分たちで設計してハンドリングしていけるという信念を持っている。そこに「共産党宣言」でも「我が闘争」でも「毛語録」でもいいが、理論付けをする。そのうえで単純なスローガンを創れば完璧である。

だが、保守側、右側からは出ない。歴史と伝統を重んじ、人間社会の複雑さを理解しているので、社会の設計などできるはずがないという確信があるからだ。勿論、歴史は結果的に「続いていく」と考えているので、己が歴史を作るとは考えない。変革は拒まないが慎重である。物事はゆっくりとしか改善できないと考えるし、急速な改革などすべきでないと考えるのである。控えめであったり、現実的であったりするので、尊敬は集めても、熱狂させることはできない。それ故その立場からはファシストなど出るはずがない。

この通り、リセット願望と相性がいいのはファシストであり、ファシストは改革の旗を掲げる。ファシストは「リセット」を言いつのり、「しがらみを断ち切る」と叫ぶ。実は民族主義とか自国中心とかは関係がない。その時々で衣を取り換えるだけである。極右や極左が危険なのではなく、設計主義者と大衆のリセット願望が結びつくことが危険なのである。その結果は必ずディストピアをもたらすことは、彼、彼女らが軽んじる歴史が冷たく教えるところである。