2018年2月5日月曜日

コスモグラフィア・ファンタスティカ

※今回は完全に書き散らしの文章です。お時間あれば。

一人っ子ということもあり、子供の頃から想像の世界に遊ぶのが好きだった。平たく言えばボーっと妄想してニヤニヤしてる変な子供だった。ちょうど「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」のようなゲームが流行り始めた頃でもあり(ゲームブックというのもあった。)、いわゆる「剣と魔法の世界」にはまり込んでいた。剣と魔法の世界はアメリカの「ダンジョンズアンドドラゴンズ」というテーブルトークRPGが流行らせたもので、古い神話を持たないアメリカ合衆国(ネイティブアメリカンは除く)が「代替品」として作り上げたヴァーチャルな神話世界だと理解している。心理学的に分析しても面白いかもしれない。

このバーチャル神話世界は何しろ後付けバーチャルなのでなんでもありなのだが、およそ欧州、それもドイツ・フランスあたりの神話や民話(叙事詩)、伝説などを下敷きにしている。ベーオウルフや北欧神話がアメリカ人の想像力の元を供給したわけだ。そういった幻想世界をファミコンゲーム(コンピュータゲーム)以前に日本に紹介したのが「澁澤龍彦」というフランス文学者である。ゲームやちょっとした解説書に飽き足らず、小学校高学年から中学生ぐらいにかけて渋澤が衒学趣味的に教えてくれる幻想世界を読み漁った。澁澤龍彦はマルキ・ド・サドの紹介者としても知られ「エロと芸術」のような水掛け論裁判もあった学者なので、思春期の少年にはその方面の想像力も刺激してくれて、しかも知的に優越感が持てるという「お得」な作家だった。


とはいえ澁澤は(仏文学者だから当然だけど)異様に守備範囲が広いので読み手の世界を一気に広げてくれる。「長靴をはいた猫」で知られるシャルル・ペローや「吸血女の恋」のテオフィル・ゴーチェのような作家を知ったのも澁澤からだし、カバラだとか隠秘学(=オカルト)も得意分野だし、オカルトとくれば、ネクロマンシー(口寄せ。恐山のイタコを想像すれば中らずと雖も遠からず)から、中欧の蘇る死者伝説に話が跳び、その中でもセルヴィアの吸血鬼ヴァンパイアと話しが進んだりする。吸血鬼=ヴァンパイアと思い込んでいると、ウピールとかストリゴイだとか、ヴァンパイア以外の吸血鬼も出てきて、ヴァンパイアが吸血鬼のバリエーションの一つでしかないことを知ったりする。しかも、ほとんど前提知識を説明しない(そこが衒学趣味なのだが)ので、知りたかったら自分でほかの書籍を探さなくてはならない。そのおかげで、稲垣足穂やら種村季弘やら四谷シモンやら耽美趣味というかゴシック趣味の「ユリイカ」的な分野にも興味が拡がったりもした。

鬼神学(悪魔学、demonology)という学問を知ったのも澁澤からだった。古くはアグリッパやミルトン、近年ではアレスター・クロウリィのような人々が悪魔というものを真面目に研究していたり、むしろ古くは様々な現象を説明する今でいう「科学」や「社会学」を構成していた。そのことから、科学的アプローチが案外いい加減なものから発達してきたものであることも理解できる。例えば化学はchemistryだが、これはアラビア語のal-chemistry、要するに「錬金術」から発達したものだと語源で分かったりもする。また、鬼神学というのは神話学の裏返しなので、ある神話(宗教)を共有する民族ごとにかなり異なる。これは山本七平だが、「鬼神学を研究すると、その民族の想像力の限界や傾向がわかる」ということもある。日本人が想像する鳳(おおとり)は鳳凰であり典型的にはフェニックスのイメージも併せ持った手塚治虫の「火の鳥」だろう。かつての日本人も大して変わらないことは平等院の鳳凰を見ればわかる。ところが、アラビア人が想像する「おおとり」はロックとかルフとか言われるもので、大空を覆いつくすような大きさである。こんなものは我々は妄想さえしない。ギリシャの多頭の蛇「ヒドラ」とわがわが国の「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」はよく似ているが、「ウロボロス」や北欧神話の「ヨルムンガンド」は大地を一周して自分の尾を咥えていたりする。古代のチャイナにも似たようなものがあるが、我々はそんなものを想像しない。とりあえず、ここに出てきた民族は「誇大妄想」の傾向があることがわかる。(笑)

学生時代、第二外国語はドイツ語だったが、澁澤龍彦や阿刀田高などのフランス文学系、或いは塩野七生などのイタリア系の著作にはまり込んでいたこともあって、ドイツ語にはさっぱり興味を持てなかった。そこでよせばいいのに捻くれて、アラビア語を一般教養で選択してみた。そもそも選択する学生が少ないので教授にはとてもかわいがっていただいたが、セム=ハム語族の言語はとても1/週の授業で歯が立つものではなく、4年かかって何とかアルファベットが読め、フスハーという母音記号がある子供向けの本ならば、辞書を片手に読めるという体たらくではあったのだが。このアラブ世界への興味も、ゲームやら神話やら、アラビアンナイトやらがスタートだったように思う。「ファイナルファンタジー」シリーズには「イフリート」という炎の魔神が登場する。イスラームは厳格な偶像崇拝禁止の宗教だが、そこはメソポタミアから続く最古の文明の末裔、神話や怪物には事欠かない。イフリートは神に従わなかった堕天使であり、ジン(精霊・妖精・幽霊)の一種とされている。アラビア語を「アリババ」をテキストに勉強しながら、阿刀田高の「アラビアンナイトを楽しむために」を読んで妄想を広げたりしていた。あの厳格なイスラム教徒の物語が相当エロティックなものが多い。そもそもアラビアンナイトの立て付けが「妻に浮気された王が女性不信になって、国中の乙女に夜伽をさせてから殺すという蛮行を繰り返していたが、シェヘラザードとドニアザードの姉妹に夜伽をさせてから聞かされた物語が面白くて殺せず、千と一夜にわたって話を聞き続け、元の聡明な王になった」というもので、到底子供向けのものではない。このイフリートもアラビアンナイトにはよく登場する。強力な魔神なのに案外間抜けなところがあり、日本の鬼に近いイメージだ。格は違うが。

アラブ世界の剣といえば、曲刀である。日本の武士と同様、大人になる(元服する)と一人前の男の証として「ジャンビーヤ」という脇差のような短剣を持ったり、我々のイメージするアラブ世界の刀剣は「シャムシール」だが、実はペルシャ(イラン)起源であったり、トルコの「キリジ」だったりする。中東世界の深さや広さを実感できたりもする。10年ほど前にプロのベリーダンサーと友人になって、本物の「キリジ」を持たせてもらったが、柄が短くて、到底我々の筋力で振り回せる片手剣ではない。日本刀なら両手が基本なのでどうにか扱えるが、馬上民族が戦争に強いことの理由を垣間見た気がした。

剣はどこの文明でも「武器であって武器以上のもの」であることが多い。戦場の武器としては、弓や槍のほうが圧倒的に意味があるだろう。しかし、男性性であったり、権力の象徴は「剣」である。トランプのスペードも「剣」である。イタリア語で剣はSPADAという。象徴的な意味の剣ならば、エクスカリバーだろう。草薙の剣(天の叢雲の剣)というもの我が国にあるが、知名度ではやはりエクスカリバー。
ブリトン人のアーサー王の剣であり、岩に突き刺さったその剣を引き抜くことができたものが王になるという伝説のある剣である。この辺りを調べると、中世欧州で流行した「ロマンス」と呼ばれる物語群を知る。アーサー王の話は「ブリトンの物語」或いは「聖杯物語」「円卓の騎士の物語」と呼ばれており、日本の昔話(今昔物語など)と同様に欧州人の常識というか、共有された物語であることを知ったりする。


全くとりとめのない文章だが、たまにはこういう話をしたかったというだけである。全く「役に立たない」知識は愉しいもので、どちらかというとむしろこちらが人生のメインであるべきなのかもと最近は考える。