2017年1月21日土曜日

志願の強要とブラック企業

2013年に公開された百田尚樹原作の映画『永遠の0』は、マスメディアの無視に近い扱いにもかかわらず大ヒットを記録した。丁度、宮崎駿のアニメ映画『風立ちぬ』と公開のタイミングが近かったこともあって、ゼロ戦ブームを呈していた。『永遠の0』は天才パイロットであり、「腰抜け」とまでいわれても、「死ぬこと」を忌避したゼロ戦のパイロットが、最後は自爆攻撃である特攻を志願し、戦死したのは何故か?ということが物語の骨子となっている。

特攻、正確には特別攻撃は、帝国陸海軍が戦争末期に米軍に対して反転攻勢の可能性がなくなった際にとられた組織的作戦であり、特攻隊員の死を前提に、飛行機・潜水艦・モーターボート・潜水士などが爆弾を抱え、敵艦・敵機に突入するというものである。一般には飛行機で敵艦に突っ込むことと認識されているが、実際には人間が操縦し突入する魚雷「回天」や、粗末なベニア製モーターボートで突入する「震洋」、潜水士が竿の先に爆弾を括り付け、敵艦を下からつついて自爆するという「伏龍」など、さまざまな手段がとられた。また、米軍による空襲が激化し、ボーイングB29という超高性能な爆撃機への対抗として、空対空特攻も行われた。

これらはすべて、「隊員の死」を前提に立案された作戦(その名に値するとして)であり、組織的にこれを行った国は日本しかない。普通に考えると「体当たり」しか方法がなくなった時点で、もはや戦争の勝ち目はなく、速やかに降伏を模索すべきであっただろうが、そうしたマクロ的な分析は他に譲ろう。ここで考えたいのは「志願」という問題である。

特攻は原則「志願制」という建前を取っていた。当然といえば当然で、絶対に死ぬ文字通りの「必死攻撃」なのだから、命令としては「死ね」ということになる。いくら帝国陸海軍とは言え、これはできない。作戦の上である部隊の全滅を前提に立案されることはあっても、ここの兵士に「死ね」というのは命令でできることではない。出来る出来ないは別にして「敵爆撃機を索敵(探すこと)し、これを殲滅せよ」という形でくるのが命令であって、その結果生き残る可能性が限りなくゼロであってもこれは命令として成立する。しかし、「死ね」というのは命令ではありえない。

それではどうするか。命令できないのなら、志願を募るほかない。ボランティアということになる。「特攻隊として突入してくれるものはいないか?」というわけである。その場合、記名式の志願確認用紙に志願の意思を記載して提出するパターンが初期には取られていたようだ。選択肢は3つ、「熱望する」「希望する」「希望せず」である。そして多くのケースでほとんどの兵士が「熱望する」に○をつけて提出したという。これを受けて左側からは「洗脳が徹底していたからだ」とか「皇国教育のせいだ」とか、右側からは「滅亡の淵にある母国を救うために若者はみな志願したのだ」という理解にたつ解説や評論を目にする。しかしこれは本当だろうか?考えてみよう。あなたが今、帝国海軍航空隊のパイロットだとしよう。あなたの所属の部隊で特攻隊員の募集がなされた。提出期限は明日の朝だ。さて、どうするか。

「志願せず」に○をつけるだけだというかもしれない。しかし軍人教育がどうのとか、時代の空気がとは別に、自分が志願しなくともだれかが行くのである。そのことはかなり重い条件になるだろう。その誰かはあなたの親友かもしれない。かと言って死にたくはない。もちろん特攻要員の人々の気持ちなど私に分かるはずはない。しかし葛藤しつつ「自分で決めさせるな。むしろ命令してくれ。」と思うのではないだろうか。それならば、責任は上官や上層部にある。しかし、ここで兵士に選ばせることで、作戦立案の責任は上層部が負うにせよ、具体的かつ個別の死についての責任は本人にある形になってしまう。それならば「熱望する」に○をつけて、上層部に下駄を預けてしまい、自分の死の責任を取ってもらうほうが遥かに気が楽になるのではなかろうか。また、時代背景として「希望せず」を選んだ場合、まさに『永遠の0』に描かれていたように「臆病者」「腰抜け」という評価が、上官にも同僚にもされる。想像するしかないが、これは非常に厳しい位置であったはずだ。時代背景、また軍というものは「勇気や名誉」を非常に重んずる。いやむしろ、これらを無上の価値として位置づけている。

現実にはほぼ全員が「熱望する」に○をつけた。上層部は結局誰が出撃するかを任意で選ぶ状況となった。「志願」という形を経たことで多少の免罪符は手に入れたかもしれないが、このような形の「志願」を果たして「志願」といいうるだろうか?

さて、このような問題は現代日本では無関係なのかと言えば私にはそうは思えない。このような構図は至る所に見ることができる。特に企業において顕著に類似する構図がある。例えばある営業マンが苦境に立たされたとする。その際に上司が部下を指導するという観点で「どうするのか?」と問い詰めることがある。これはある意味当然で、その営業マンが自分で解決策を考えて実行することができるようになるという成長には不可欠であろう。しかしこの場合にはその上司が問題を解決する力があり、かつ部下を育成する気があるというのが大前提である。だが、往々にしてそうではないことがある。

例えば達成不可能であることが分かった売上予算があるとする。この場合、この部門の管理職は達成可能な予算にまで修正し(様々な見通しや言い訳や来期見込みなどを揃えた上で)さらなる上位者にそれを報告し、修正予算を呑ませる。そして部下には「ここまでは何とか必達してくれ」というハッパをかけるというのが普通であろうし、あるべき姿だろう。
しかし、いわゆる「ブラック」だとこうなる。売上予算が達成不可能であることを把握した上司は、部下にできもしない訪問数や売上を強要する。しかもこれが志願という形をとるのだ。「どうするんだ!」「いえ、私は」「言い訳はいい!どうするんだ!」「いえ、私は」「400件訪問すれば予算に届くだろう!」「とても一月で400件も・・・」「言い訳はいい!やるのかやらないのか!」「いえ、私は」「お前のせいでチームメンバーに迷惑がかかっているんだ!やるのかやらないのか!」「・・・やります。」
当然、予算どころか、それを達成するための訪問数というKPIさえ達成できない。このタイプの管理職はここでこう言う「お前がやるというからやらせたのに出来ないとはどういうことだ!」これは要するに志願の強要だ。単なる責任転嫁でしかない。あるいは管理者の無能を示しているに過ぎない。そしてここから、旧軍にあった「恥を知れ!」「処決せえ!」「特攻に志願する者は前に出ろ!」という自殺の強要との距離は近い。

会社員が過重労働のため自殺するということが時折ニュースになる。しかし私の経験から「人は長時間労働だから自殺したり過労死したりする」のではないと言える。ただ長時間働いたら自殺するならば、ベンチャーの経営者はほぼ全員が自殺せねばならない。そうではなく、上述したような「悪しき圧力」を受け流したり、無視したり出来ず、まともに受け取ってしまうと「責任感ゆえの無力感」で追い詰められ、まともな思考力を奪われ自殺するのだ。かつて「軍隊は要領」と言われたそうだ。山本七平によればこの要領とは「気迫演技」だそうである。言葉を受け流して外面だけ緊張感を漲らせ青筋を立てて動作すれば、「やる気がある」とみなされ優遇されたという。そういうことができないと、死地に追いやられる。実質的にこれは「志願の強要による他殺」である。だが、今も昔も真の責任者は責任を問われない。昔上官、今上司というわけだ。(メディアとITのおかげで多少は是正されるようになったことが、昔よりマシだが、そのような救済に預かれるのはニュースソースになりうる大企業や話題の企業での犠牲者ぐらいだろう。)

旧軍の中にある思考様式を「反省」しないまま、われわれは戦後を生きてきた。旧軍の悪しき「文化的遺伝子(ミーム)」はいまだに我々のなかにある。順調な時は顔を出さなくとも、逆境において「悪しき日本軍の亡霊」は我々の中によみがえる。これは我々の弱点のはずだ。無意味なスローガンや当初計画に対するしがみ付き、それに伴う無意味な「特攻/異常な過重労働」。そしてそれを助長する我々の思考様式。これを克服せずには先の戦争を反省したとはいえまい。帝国陸海軍は消滅した。だがそのミームは残っている。むしろ軍隊がなくなってしまった為に普通の市民生活の中に顔を出しているのではないか。

長くなったので章を改めて書きたいと思う。
※ちなみに「何を反省するのか?」シリーズです。

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