2017年10月24日火曜日

子供の教育

先日、我が家の一人娘が4歳を迎えた。今は保育園で無邪気に遊んでいるが、そろそろ学校教育を中心にどうしていくかが気になり始めている。近頃は厚労省管轄の保育園でさえ英語教育や空手などを取り入れていてびっくりする。娘も時々私が聞き取れないレベルの発音をしたりして、親としては喜んでしまったりする。勿論、幼児期特有の耳の良さでしかないことぐらいは知っている。単なる親バカである。



実際に親になってみると「子供にはもって生まれた特質がある」ことを実感する。娘は比較的大人しいが、それでもふざけるのは大好きだし、一人っ子のわりに周囲の友達に引きずられたりする。運動は嫌いではないようだが、パワーとスピードはあるのに敏捷性に欠ける。この辺りは私に似てしまってちょっと申し訳ない。娘の友達や従兄弟たちを見ていると当然ながら娘とは全く違う性質を持っている。落着きはないが、娘と対照的にすばしっこく、バランス感覚が優れている子。或いは、親分肌で周囲をまとめる力のある子。

こうした「性質」は教育とは何の関係もないだろう。詳しいことはわからないが遺伝的要素など生物学的なことに起因しているに違いない。話題になった双子の研究などによると、教育や環境などによる後天的な要素は先天的な要素に比べてあまり、その子供のその後に影響を与えないらしい。まあ、それはそうだろう。子供が真っ新な白紙であり、教育しだいでどうにでもなるなら、少なくとも先進国では賢者ばかりになるはずだ。勿論、実際には「上智と下愚は譲らず」の言葉通り、2割ぐらいの賢者と愚者、8割程度の「普通の人」という分布は変わらない。そのように考えると「大賢者」を教育で作ることは諦めたほうがいいだろう。私自身の実感としてもハードウェアとしての頭の良しあしは生まれながらに決まっており、後天的にどうにかすることはできない、と考える。

では「あらゆる教育は無駄」かというとそんなことはないだろう。ハードウェアの性能はどうしようもない。しかし、例えば「努力には意味がある」、「知見を広げる事が人生を楽しく、豊かにする」ということを実感させたりすることで、物事へのスタンスを身に着けることはできる。その手伝いぐらいは教育にもできるだろうと考えている。「手伝い」としたのは、結局、本人の資質に左右される部分が大きいからだ。「馬を水飲み場に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない。」の言葉通り、水を飲むか否かは本人次第である。ここについては我が子を信じるしかあるまい。

自分自身を振り返ると、両親のサポートという観点で、いくつか「もう少し何とかなったな」というポイントがある。私の両親が特段なにか問題があったとは思わないし、感謝している。しかし、自分もまた人の親になったという点で考えてみると、もう少しサポートすれば、もう少し世界が拡がったかもしれないという出来事があった。一つは小学校高学年の頃、交換留学生の話があった。カナダのケベックが私の出身地と姉妹都市かなにかになっており、留学生の候補に私ともう一人が上がったのだ。結局、私は行かず、もう一人の女の子が行ったのだが、私が行かなかった理由というのが、「家が狭くて恥ずかしいので、交換留学生を受け入れられない」という主に母の反対である。当時は「ちょっと残念」くらいだったが、今にして思うと、随分勿体ないことをしたなとも思う。例えば、家が手狭なら、隣の区に住んでいた祖父母の家に来てもらうくらいの知恵は働かなかったのかとも。とは言え、両親を責めても仕方がない。そうではなくて、そういうタイミングの時に、親としてサポートするだけの力と見識を持っておこうということである。

また、結果的には小さなコンサル会社の経営者になってしまったが、幼少期から飛行機が好きで「パイロットエンジニア」になりたいと思っていた。案外、身体能力も高く、まあ、勉強も人並みよりは出来、視力も未だに2.0ということで、できない理由はとくにない。エンジニアには後からでもなれるのだから、まずはパイロットを目指せば、それは(もちろん、色々な曲折はあるにきまっているが)実現可能性はそれなりにあっただろう。エンジニアはともかく、パイロットはあり得ただろうなと思う。しかし、当時の両親はそれを「冗談の類」として受け止めていた。両親が悪いわけではない。おそらく、「いい学校→いい会社」がよいというその時代の社会規範にとらわれており、一人息子がそこそこ「頭がよい」のに、そのような「特殊」な道を歩ませる意義を見出せなかったに違いない。

それは全く無理からぬことである。人はある時代のある場所に生まれ育つ。それは宿命であり、逆らうことはできない。しかし、それでも我が娘が、私には理解しにくい夢を持ったとしても、それを真正面から受け止めて、検討、サポートような親でありたいと思う。家庭教育でファームウェアとOSを形成し、学校教育は最低限のアプリケーションをインストールする場である。教育について親ができるほとんどすべてのことは、選択肢を提示すること、知見を広げるチャンスを与えること、漫画でもいいから読書など最低限の習慣を身に着けさせることに尽きるのではなかろうか。


とりとめのない文章になってしまったが、子供の教育について考えてみた。

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