2017年10月17日火曜日

ファシストはリセットボタンがお好き

昭和50年生まれなのでファミコン世代ではある。小学生の時分には買ってもらえなかったので、よく友達の家で遊んだ。ロールプレイングゲームのようなものはそうはいかないので、中学生になって中古のファミコンを手に入れ、ウィザードリィやドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーなどを夢中で遊んだものだ。行き詰ると「リセット」ボタンを押したくなる。攻略本などではリセット前提の方法を書いてあったりして、今思えば「ゲームの設計思想」としてどうなのかとも思う。

別段、ゲームの影響がどうこうということを書きたいわけではない。ただ、ゲームのおかげで、坂本龍馬の「日本を今一度洗濯したく御座候」のような願望を「リセット願望」と表現することができるようになって、便利になったというだけである。



少し考えると分かるが「リセット願望」はかなり子供っぽいものだ。子供っぽいだけに「変身願望」と同様かなり根源的であったりする。洋の東西を問わず、リセット願望は様々な出来事の原因となってきた。例えば、バーグが口を極めて罵ったフランス革命はまさしくリセット願望を具現化したものであった。「保守思想の父」などと呼ばれるバーグの議論は結局「リセットしたらゴミじゃないものまでゴミ箱に捨ててしまうだろう」ということに尽きている。英国から 彼の目でフランス革命を眺めると「狂気の沙汰」にしか見えなかったということだ。革命の理想はどうあれ、持てる階層からなにもかも分捕って、持たざる階層に配る。そして、わずかでも異を唱えれば処刑される。そして新たな支配階層は「支配」をしたことがないものだから、際限なく腐敗し矮小化する。そして反革命が起こり、ナポレオンという軍事的独裁者が台頭し、王制が復活し…と大混乱。あたかも人類史上の一つの「最高の瞬間」のように記憶されているが、私にはそうは思えない。

理想はあくまでも「理想」であって、たとえて言うなら虹のようなもの。虹を捕まえることは絶対できないけれど、虹それ自体は確かに見える。理想とはそういうものであるという大人なら誰でも知っていることである。しかし、なんらかの原因で大人の視点を手に入れられなかった人には「だってそこに虹がある!」以上のことがわからない。ユートピアとは「どこにもない場所」という意味である。ネバーランドも字義通りであろう。しかし、目の前の現実を全否定して「どこにもない場所」を現実化しようとすると大抵の場合、「地獄」を現出してしまったことが歴史上には何度もあった。その根底にあるのが、「リセット願望」であろう。

ユートピアを創り出そうとしてディストピアが出来てしまった例はいくらでもある。前述したフランス革命後の革命政府による恐怖政治もそうだし、ドイツ第三帝国(いわゆるナチス)もそうだ。ファシストイタリアやロシア革命後の共産党独裁もそうだし、文化大革命後の毛沢東による恐怖政治も同じである。どれも閉塞感にとらわれた多数派の恨みつらみを燃料とし、リセット願望に誰かが着火した。それは「何もかも一気に変えて、ユートピアを創ろう!」とした善意から出ている。中産階級にせよ、インテリ層にせよ、こうしたリセット願望にとらわれる人は多い。この時に出来上がる「リセット願望の空気」を束ねて独裁者が登場する。近年はファシストと呼ばれるが昔からいる。古代ギリシャでは僭主とよばれていた。なお、ファッショとは「束」の意である「ファスキス」からきている。

ファシストは野心家で有能であり、本来は「善意」の人である。また強烈な信念を持っていたりする。彼らは行動力があり、その狂信ともいうべき自信たっぷりの態度や言動から人を引き付ける魅力がある。そして、必ず革新側、左側から登場する。なぜ、保守側、右側からは登場しないのか。理由は簡単である。革新は「歴史を否定し、己が歴史を作る」と考えるからだ。人間社会を自分たちで設計してハンドリングしていけるという信念を持っている。そこに「共産党宣言」でも「我が闘争」でも「毛語録」でもいいが、理論付けをする。そのうえで単純なスローガンを創れば完璧である。

だが、保守側、右側からは出ない。歴史と伝統を重んじ、人間社会の複雑さを理解しているので、社会の設計などできるはずがないという確信があるからだ。勿論、歴史は結果的に「続いていく」と考えているので、己が歴史を作るとは考えない。変革は拒まないが慎重である。物事はゆっくりとしか改善できないと考えるし、急速な改革などすべきでないと考えるのである。控えめであったり、現実的であったりするので、尊敬は集めても、熱狂させることはできない。それ故その立場からはファシストなど出るはずがない。

この通り、リセット願望と相性がいいのはファシストであり、ファシストは改革の旗を掲げる。ファシストは「リセット」を言いつのり、「しがらみを断ち切る」と叫ぶ。実は民族主義とか自国中心とかは関係がない。その時々で衣を取り換えるだけである。極右や極左が危険なのではなく、設計主義者と大衆のリセット願望が結びつくことが危険なのである。その結果は必ずディストピアをもたらすことは、彼、彼女らが軽んじる歴史が冷たく教えるところである。




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