2017年4月28日金曜日

建前論の行き着く先、或いは地獄の敷石

この世は矛盾に満ちている。矛盾というより逆説(パラドクス)と言うべきだろうか。成長途上の子供や若者ならばともかく、普通の大人は「建前は建前」であることを知っているものだ。それほど自覚的でなくとも、特に「正義」の衣を纏った建前には「ああ、反論させたくないということだな」と解釈できるのが普通の大人である。

ところが世の中にはこの建前というものを本気で信じてしまう人が存在する。それには色々な理由があるだろう。生まれつき宗教家の素養があったり、己や世界を客観視できるほどの知性がなかったり、ある種の教条主義的な家庭で育ち、精神的親離れができなかったり等々。しかしそのような人々は少数派だろう。いずれも「滅多にいない」レベルの少数派である。

それにしては建前を本気で信じてしまう人が世の中に多い。何の話をしているかと言えば、ポリティカル・コレクトネスの話である。近頃はPCやポリコレという略称で日本でも定着してきた。このポリティカル・コレクトネスの本家である欧州や米国では逆差別問題や反グローバリズムが目立つなかで、むしろそのピークを過ぎている。しかし「欧米の後追い」が大好きな日本においては周回遅れで流行する可能性がある。



すでにある程度「スチュワーデス」⇒「キャビンアテンダント」「保母⇒保育士」などのフェミニズムの文脈で日本も影響を受けている。しかし行き過ぎると息苦しい社会になるのでそんなものが定着してほしくはない。只でさえ「敗戦+日本国憲法」を核とした「戦後民主主義・戦前絶対否定主義」という日本流ポリティカル・コレクトネスの横行が弱まったのに、欧米流のそれが日本に流入すると善意の地獄のようなものが現出するかもしれない。

さて、ポリティカル・コレクトネスの定義だが「政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のこと」(Wikipedia)だそうである。
これだけ読めばまことに結構なことなのだが、普通に考えてこんなものは「イデア界」にしか存在しない。或いは最後の審判の後の神の国にしかあるまい。神ならぬ身で、一体誰が「公正・公平・中立」を保証するというのか。

ポリティカル・コレクトネス は1980年代の米国から始まった奇妙なムーブメントなのだが、それが世界に広まりつつあるのがおかしなことである。別段どこの国でもその国の暗い過去の歴史に起因するタブーは存在する。そのタブーに触れない、或いは克服する努力はあるし、それがそれぞれの国のポリティカル・コレクトネスである。だからそれぞれの国と地域に限定しておけばいいものを、米国人は世界化したがり、西欧人は欧州全体に押し広げようとする。

大体においてポリティカル・コレクトネスが叫ばれる領域は「人種」「宗教」「性別」「文化」である。端的に言って主にキリスト教が基盤となったとした白人社会の話である。結論を申せば「白人がこれまで犯してきた罪の意識への救済として、贖罪のために善意を押付けている」というだけである。もはや「神は死んだ」現代では、人間理性を神の代わりに置くしかないのであろう。(それがどれほど恐ろしい現実を招来するか、フランス革命で学んだはずなのだが。)

米国は先代の大統領が黒人だったが、建国以来の長い黒人差別(正確には黄色人種である先住民を含む有色人種への差別)の歴史がある。それがあまりにも身近であり、また1945年以降の人種平等的イデオロギーの世界的伝播、キング牧師やマルコムX、或いはブラックパンサーなども含む非暴力或いは暴力的な黒人解放運動(公民権運動)の努力と闘争の結果、少なくとも表立っての差別は「悪いこと」というものが定着した。また、キリスト教的(ピューリタン的というべきか)な発想から女性の社会的地位が歴史的に低かったため、反動としてのフェミニズムが勃興し、こちらも表立っての差別は「悪いこと」として定着した。(ガラスの天井云々でいまだに続いている)

一方西欧だが、こちらはユダヤ人への差別がその歴史の伏流となっている。また、大航海時代から始まる帝国主義により有色人種を暴力的に支配する一方で、1700年代まで宗教戦争が横行した地域である。それらの結末として、ナチス・ドイツが台頭し、ユダヤ人(ロマ:ジプシーも含む)のホロコーストを繰り広げた。その反動としてナチス的なものの徹底的な否定、ユダヤ人やロマ、アラブ人などへの差別の否定、欧州内での非戦などをイデオロギーとして「EU」が生まれた。そのイデオロギーこそがある種のポリティカル・コレクトネスなので、これを否定することは絶対のタブーだ。(自壊しつつあるけれど)

翻って日本だが、欧米流のポリティカル・コレクトネスは、はっきり申し上げて「何の関係もないのに、わけのわからない正義を押付けられてもこまるだけ」である。しかも、所詮は建前に過ぎないこともわれわれ大人は知っている。米国では厳然と黒人は差別されているし、欧州で不快な思いは何度もしている。(イタリアは例外だけど)

西欧諸国や米国と日本は価値観も歴史も共有していない。あるのは同じ「近代国家」という共通点だけであり、最低限のルール共有(最恵国待遇などの付き合いや国際法)はしているが、我々には黒人奴隷を使役したり、セックススレイブ(アメリカの黒人の肌の色に幅があるのはこのせいだ)にしたり、ユダヤ人を差別したり、宗教戦争で近代まで殺しあった歴史などない。

勿論、日本の歴史に暗部がないと言っている訳ではない。織田信長が比叡山を焼き討ちするまで宗教戦争はあったし、現代まで続く部落問題もある。中共による誇大宣伝はともかく、人身売買もあれば売買春もあった。だが、それはそれで個別の事情である。少なくとも欧米流のポリティカル・コレクトネスとは何の関係もない。参考にはなるのかもしれないが、真似する必要も恐縮する必要もどこにもありはしないのだ。

グローバリズムの信奉者は二言目には「ダイバーシティ」という。だが、不思議なことにグローバリズム自体が世界の単一化を志向していることに気がつかない。ファシズム(全体主義)は危険だというくせに、全体を同じ方向に向けようとする。迷惑千万である。

たとえば、日本においては女性の地位は低くない。今も昔もである。妻が夫の財布を握っていることが主流な国でよくも地位が低いなどといったものだ。ルイス・フロイスも驚いて書いているではないか。「日本では女性は男性の所有物ではない。よき友であり、理解者であり、妻である」と。

ついでに言えば、明治日本が西欧流の「女性は男性の所有物」というのを猿真似したのだ。結局定着しなかったけれど。(サラリーマン諸君を見よ!)

近頃はようやくグローバリズムへの反省が出てきた。「一つのヨーロッパ」ではなくて「さまざまなヨーロッパ」の並存が望ましいとエマニュエル・トッドは言う。欧州については他人事であるが、賛成である。世界が単一になるなんて、退屈きわまりないではないか。


地獄への道の敷石は善意で舗装されている」そうである。このポリティカル・コレクトネスという善意はまさにその舗装の化粧石だろう。言ってしまえば「偽善」である。偽善がルールの世界はユートピアでもネバーランドでも桃源郷でもエルドラドでもない。それは端的な「地獄」である。

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