2017年4月25日火曜日

何を”保守”するのか

私は一介のビジネスマンに過ぎない。従って政治にせよ歴史にせよ難しいことはわからない。別に謙遜ではない。自分の仕事に関する専門知識と比べれば「知識と理解」が圧倒的に足りないことぐらいは自覚しているだけである。だが世の中の大多数が私のような「政治の門外漢」により構成されている。そして良くも悪くも「民主主義」である。だから政治や社会には関心を払わざるを得ないし、的外れも覚悟の上でブログに考えを綴ってみたりもする。

直接の知り合いやSNSのつながり、ブログ読者の方には説明不要だが、私の政治的立場は「保守」である。この20年来「暴走する保守」「迷走する革新」という語義矛盾な政治状況が続いており、なかなか定義が難しい。そこで自分自身の整理も兼ねて自分の立ち居地を考えてみる。


保守という語義を考えると「保ち」「守る」ということであろう。それではそもそも私は何を”保守”したいのだろうか。

極小的には「生活」である。ある程度以上の収入を得て、家族を養い(共働きだけどもw)、たまには旅行に行ったり、娘の成長を喜んだりする。そうした生活を”保守"して行きたい。これは一般的には揶揄をこめて「生活保守」と呼ばれる立ち居地だ。それは否定しない。

その生活と地続きなのはどこまでか?大枠では地域であり、国家である。少なくとも北は北海道から南は沖縄までの日本人に同胞意識を持っている。海を隔てた外国はどれほど近くであれ、どれほど親日的であれ、「隣人の国」であり、同胞意識はもてない。国を生体に例えれば、隣人たちは異物であり、有益なら歓迎し、有害なら排除する。あくまでも私にとっては日本人が同胞である。

その生活と地続きである「日本」社会の中で”保守”したいのはなんだろうか。それは恐らくこんな社会だ。多くの人が「中間層」に属し、それぞれの才能に応じて努力する。「生存」を保障されながら、水準以上の教育を受け、さまざまな曲折がありながらも社会人となる。そしてこれまた紆余曲折を経て伴侶を得、子供を育て、社会に送り出し、運がよければ孫の顔なども見て死んで行く。それが「普通」であるような社会である。

今度は縦軸(時間軸)に目を移そう。大学では哲学を学んだが、もっとも違和感がなかったのはヒュームに代表されるイギリスの経験主義である。ドイツ的、フランス的な観念を演繹して行くタイプの哲学は「なるほど」と思っても強い違和感ばかり感じた。まず「決め付け」があり、それを証明して行くスタイルの思考は私には危うく思えた。要するに最初の前提が間違っていたとしたら、どこまでも間違いを広げてしまうと思うのだ。

私の理解では、世界は「ダーウィン(やはりイギリス人だ)」の発見した理論に従い、「適者生存」のロジックに貫かれている。従って、一定期間以上続いた物事には何がしかの理由が存在する。そしてそれを短期間で覆そうとすると思ってもみないさまざまな影響が出る。従って、生物の進化と同様、物事の進化、社会の進化も連続的かつ漸進的であって、急進的な進め方は多くの場合は破綻すると考えている。急進的な進め方は「正しい方向性」の決め付けからスタートするが、その方向性が「正しい」可能性は極めて低いと考えるからである。

なぜ正しい可能性が低いのか。それは人が神ならざる身であるからである。余人は知らず、私は錯誤と誤謬を繰り返しながら生きている。そのときそのときの決断が「正し」かったかは事後的にしかわからない。だから「正しい」ことを知るには膨大な時間による膨大な経験・知識が必要ということになる。「正しい」ことを知る。そんなことは如何なる天才でも一代ではなし得ない。論理的に考えればそれ以外の結論はない。

従って「適者生存」と「時間の風雪に耐えた事後的な正しさ」という条件からは「伝統重視」ということしかありえない。縦軸(時間軸)で保守すべきものは”伝統”ということになる。

また「適者生存」は「ある特定の環境化への適応」のことであるので、限定された領域、限定された環境という大枠があるはずである。それゆえにその領域に限定された「伝統」こそがその領域でほとんど唯一機能しうるものである。他にも機能するものはあるだろうが、それは無限に近い試行錯誤を繰り返すことでしか判別しえない。そして最適解を見出す頃にはそれは伝統に組み込まれているだろう。

このような考え方に立つと日本の「革新」という立場は「自らが歴史を作る」と思い上がり、知恵と最適解の集積である「伝統」を破壊する愚か者でしかない。少なくとも政治において「急進的変革・改革」を唱える立場は左右問わず「天に唾する愚者である」というのが私の立場だ。

では一切の変化・変革を拒むのかと問われれば「そんなことは不可能だ」と答える。時代や世の中は嫌でも変わる。「適者生存」の原則は変化に適応しない者や社会を無情に絶滅させる。だからどれほど伝統を墨守しようとしても漸次的に変化して行かざるを得ない。そこには無数の試行錯誤があるだろう。それ故に変化や変革をせざるを得ないのだ。滅びたくなければ。だが、ユダヤ・キリスト教的に世界が直線的に変化しているとは到底思えない。世界の変化に恣意的な方向性は存在しないと私は思う。それゆえに正しいことを見極めることはほぼ不可能である。世界は永劫回帰というか、仏教的な輪廻のようにグルグルと回っているというのが実感に近い。近代においては縦軸にテクノロジーをとった螺旋階段のような変化をしているのであろう。(この縦軸とて、いつ失われるかわかったものではない。古代ローマを見よ)

螺旋階段を上る中で足を踏み外さないように伝統を参照しながら、できるだけ多くの中間層が人間としての本性(幸福を追求しながら子孫を残す。残せなくとも別の形で子孫に貢献する。)を満たすような生き方を「守る」ための考えや態度、それこそが「保守」であろうと私は思う。


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