2017年3月13日月曜日

教育勅語と菊の御紋

教育勅語についての報道や言及が例の森友学園騒動や防衛相の発言などから散見されるようになった。戦前は不磨の大典の憲法に次ぐものとして、戦後は一転して悪魔の標語のような扱いを受けている「教育勅語」だが、とりあえず読んでみないことには話にならない。読んでないまま批判している人も多いであろう。以下全文である。

--
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽
--

実はこれだけである。明治帝が臣民(≒国民)に対して徳目を説くという形式である。解釈についてはかなり色々あるらしく現代語訳もバラバラだが、ともかく具体的な徳目についてはおよそ解釈が一致しているそうである。その部分だけの現代語訳は以下の通り。

「父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以て交り、へりくだって気随、気儘の振舞をせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。」

内容としては極めて常識的な徳目だろう。「君主が臣民に説いた」という形式については違和感が残る人がおおいだろうが、現代でもおよそこの程度の徳目が、いわゆる「道徳」として説かれている。「万一危急の大事」の部分も形を変えているが、まあ生きている。戦時を想定しているものだろうが、東日本大震災のような緊急事態の際にも、多くの人が「勇気を振る」って故郷や社会のためにつくしたのは記憶に新しい。

現代の目でみると、内容に過不足(何を過不足とするかは人によって見方は違うだろうが)があり、道徳の基準とするには物足りない部分が多いが、明治期のものとしては立派な内容である。むしろ問題は内容ではなくて、「形式」と「運用」についてではあるまいか。


毎度のことではあるが山本七平の議論を思い出す。日本軍の兵器についての話である。
帝国陸軍の主力火器は三八式歩兵銃という小銃である。三八式に限らず、日本の兵器には「菊の御紋」が入っている(すべてではない)。これでどうなるかというと、メーカ「天皇」、ユーザが「二等兵」という事態を招来する。山本七平の表現を借りれば「これは欠陥兵器じゃないすか」ということは「欠陥現人神じゃないすか」というのと同義になってりまう。何しろ「兵器は神聖である」「砲即軍旗・砲側即墓場」というような世界だから、ユーザである二等兵はメーカーの天皇に到底クレームを言うことはできない。

すると何がおこるか。ユーザからのフィードバックがメーカに届かないということになる。実際にはメーカは天皇ではなく、現人神でもなく、軍需産業のメーカなわけなのだが、菊の御紋のおかげで現場の否定的意見が届くことはない。するとメーカは効果的な改善ができなくなる。これがどれほど「ものづくり」にとって致命的なことか、製造業に勤める方なら説明不要であろうし、そうでなくとも容易に想像できるだろう。「クレームは宝物」「クレームはラブレター」というのはこういう意味においてである。

三八式というのは明治三十八年式という意味である。明治38年は西暦なら1905年である。1940年代の戦争の主力兵器が35年前の兵器である(九九式という新式小銃もあったが到底間に合っていない)。多少の改良はなされたが、終戦まで主力であった。一方、干戈を交えた米国は1936年に半自動小銃のM1ガーランドが配備されている。それほど基本設計の古い兵器を使いながら、ユーザの声がフィードバックされないというのは恐るべき停滞を招いてしまうだろう。否、招いてしまったのだ。

日本国憲法もマッカーサー欽定の「不磨の大典」化しているというような皮肉はさて置き、教育勅語の問題点もまさに「勅語」である点であろう。即ち、異論や反論を許さない「空気」を生み出しやすく、実際、生み出してしまったこと。そして、それを利用するものが、本来の意味を「曲解」してもそれを「曲解」と指摘しにくく、勅語それ自体も「勅」であるが故に天皇自身が改めるしかなく、継続的改善がほとんど不可能なこと、これが教育勅語の本質的な問題点であろう。左派は教育勅語を「悪魔化」することで、右派はそれを「神授化」することで、どちらも絶対化している点では変わらず、全く建設的ではない。

教育基本法でも何でもいいが、このような「法」は所詮人間の作るもので、どれほど正しそうでも欠陥があり、執念深く継続的に見直しと改善をするサイクルが必要という前提に立たないと、結局、戦前と同様の過ちを繰り返すだけになるはずである。必要なのは菊の御紋ではなく、製造業におけるTQM(統合品質管理)である。そこには日本国憲法ももちろん含む。人間が作り出したものである以上、無謬であることはできない。それゆえ、日本国憲法だけ例外などということはありえない。


教育勅語とは復活や全否定を議論するような性質のものではない。日本人が「かつて運用した教育の基準として歴史的に学ぶ対象」というのがあるべき姿であろう。自分たちの歴史として敬意を持って学べばいい。そして反省すべきは「天皇制ガー」とか「軍国主義ガー」ではなくて、神聖なものを現実世界に持ち込むと、フィードバックループが回らないという点のはずである。ボルトアクション自動小銃に立ち向かった父祖達の負け戦から学ぶべき点はまだまだある。だが多くの場合、問題の本質を取り違えていることが多い。今回の騒動でつらつら思ったことを整理してみたが、いかがだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿