2020年3月4日水曜日

区別する道徳

「人助けランキング、日本は世界最下位」英機関 日本は冷たい国なのか ホームレス受け入れ拒否問題 (飯塚真紀子) - Yahoo!ニュース

「世界人助けランキング(World Giving Index 10th edition)」というものがあるらしい。なんでもランキングがあるものだと妙な感心をしてしまったが、それはおいて、この記事内の以下のようなコメントにすこし引っかかりを感じた。

 注目すべきは、調査した3つの観点の中でも、「見知らぬ人、あるいは、助けを必要としている見知らぬ人を助けたか」という観点で、日本は125位と世界最下位であることだ。この観点でボトム10の国々は下記の表にある通り。その顔ぶれを見ると、ほとんどが、現在またはかつての共産主義国だ。そんな国々よりも日本はランキングが低く、世界最下位なのである。

 この結果をどうみたらいいのか? データが全てとは言えないが、このデータだけに従えば、日本は世界でも最も人助けをしない国ということになりはしないか? 今回の行政のホームレス受け入れ拒否やそれに賛同している人々が少なからずいることを考えると、この結果は日本の冷たさを表しているかのようにも見える。
そして、ソーシャルキャピタル(人的ネットワーク)の低下という仮説に収斂されていく。

 日本は、東日本大震災の時の人々の助け合いの姿勢が示すように、ソーシャル・キャピタルが高い国だと評価されていた。近年、格差の拡大により、日本のソーシャル・キャピタルは減少傾向にあるが、ホームレスの受け入れ拒否やそれに賛同する多々の声は、日本のソーシャル・キャピタルのさらなる低下を表しているような気がしてならない。
果たしてそうなのだろうか。少しピントがずれている気がしてならない。山本七平は「空気の研究」の中で
『まず、日本の道徳は差別の道徳である、という現実の説明からはじめればよい』
と書いている。これは道徳教育の問答の中での言葉だが、意味合いとしては、日本人は知人/非知人を明確に区別しており、

『これを一つの道徳律として表現するなら、「人間に知人・非知人の別がある。人が危難に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人の別なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりあいになるな」ということになる。この知人・非知人を集団内・集団外と分けてよいわけだが、みながそういう規範で動いていることは事実なのだから、それらの批判は批判として、その事実を、まず、事実のままに知らせる必要がある。それをしないなら、それを克服することはできない。』

と解説している。「差別の道徳」は誤解を招きそうな表現なので、ここでは「(知人/非知人を)区別する道徳」としよう。これは1977年の頃の文章だが、2020年現在でも「区別する道徳」は我々を律していると私は思う。余人は知らず、私は見知らぬ人が公共の場で倒れていたり、うずくまっていたとしても、十中八九、見て見ぬ振りをするであろう。例えば、出勤時や帰宅時、最寄りの駅で体調不良や飲酒によって倒れたり、うずくまっていたりする人がいるとする。実際、年1-2回くらいの頻度でそういう場面に遭遇する。だが、大抵は「急いでいるし、駅員の方が適切に対処するであろう」とか「既に誰かが声がけや救急車を呼ぶなどしているだろう」というような自分への言い訳をして通り過ぎる。さらに言えば、「関わり合いになると面倒である」という意識が否応なく働く。これは山本七平のいう通りの道徳律に律されている証左である。「余人は知らず」と書いたが、現実には、多くの人がさほど良心に咎められず、換言すると翌日には忘れる程度の良心の呵責で、私と同様の対応をしているように見える。

「区別する道徳」はずっと昔から、少なくとも山本七平が言葉にした1977年以前からあり、そして山本が指摘したようにそれを事実として教えていないから、当然、2020年の現在でも克服出来ていない。

 注目すべきは、調査した3つの観点の中でも、「見知らぬ人、あるいは、助けを必要としている見知らぬ人を助けたか」という観点で、日本は125位と世界最下位であることだ。
ここまでの議論を踏まえると、上記の結果は当たり前である。ソーシャルキャピタル云々ではない。もともと我々は「見知らぬ人、即ち非知人は黙殺すべし」という道徳律の世界で生きているのだ。嘆くとすれば、それを直視しないために、克服どころか、議論さえ出来ていない事なのではないか。冷酷な物言いをしてしまえば「ホームレス」とは「誰の知人でもない」ということなのであろう。我々、日本人にとっては。

東日本大震災の時は違ったという議論もあろう。あの時は見知らぬもの同士が助け合ったではないか。と。確かにあの時は違った。その時私は東京にいて帰宅難民となったが、誰もがお互いに親切であった。しかし、それは「区別する道徳」の知人という範囲が「誰もが震災の被害者」という括りによって大きく拡大されたものであったろう。天災という誰の責任も問うことが出来ないことを前に、「天(自然) v.s. 我々」という構図になった時、外国人だろうとホームレスだろうと「我々」、即ち、「知人」と捉えたのである。

この「区別する道徳」を日本人の弱点と考え、それを克服しようとするならば、まずは、山本七平のいう通り、事実を事実として認識し、それを教え、考えることである。

普通に考えていくと、これは我々がとてもハイコンテクストな社会で生きていることが一つ、もう一つは「正義、或いは価値体系」を喪失していることの2つが大きな要因であるように思える。前者は、「世間」という相互監視を前提とする社会を生きているということである。これは日本人の定義のようなもので、これを壊すことは殆ど不可能事であろう。世間は即ち、我々にとっての「世の中」であり、社会の一種ではあろうが、お互いの考えを読み合い、即ち空気を作り出し、それに支配されることで安定を保っている社会である。これを切り崩していくのは容易ではない。後者については、まだ可能性がありそうだ。これについてはいずれ稿を改めて考えたい。

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