70余年もかかったが、我が国は敗戦と占領の呪縛からようやく脱る気配があるように見える。前回のブログにも記したが「反体制が正当である」というひどく「不自然なパラダイム」が崩壊したというのが、その主な要因であろう。それ自体は望ましいことである。しかし、そうであるとするならば「ここからどのような未来を志向するのか」という次の難問が持ち上がる。もちろん「なるようになる」という考えもあろう。だが、案外我々は「なるようになる」という考えに耐え続けられるほど強くない。そして、好むと好まざるとにかかわらず、「なるようになる」という態度は、そう考えない人々や国によってもは振り回されるという結果になりがちである。それが嫌ならば、やはり「志向(ディレクション)」だけは考えておくよりほかはない。しかし、かつてのように「ただそれを真似るだけでよい」というロールモデルは存在しない。正確にはそんなロールモデルなど元々どこにもないのだが、数十年前までは「地上の楽園」だの「よい核」だの「追いつけ追い越せ」だのと言うことができたわけである。そのような妄想に近い理想を仮託できるユートピアなど存在しないという諦念を基本としてこれからの方向性を考えていくほかあるまい。
ところで、そのように無責任な「反体制の人々」にも良いところはあった。ひどく子供じみてはいたが、少なくとも彼らはニヒリストではなかった。彼らはその子供っぽさ故、ニヒリズムに耐えられず、夢の世界へ逃げ込んでいたとも言えるだろう。しかし、諦念から出発する我々のようなリアリストにはそんな逃げ場はない。ニヒリズムに正対していかなくてはならない。ニヒリズムとは「虚無主義」と訳すが、もっと平たく「価値(序列)の混乱」と考えておけばいい。要するに「何が正しくて、何が間違っており、何に価値があって、何に価値がないのかがはっきりしない」ということである。
さて、現代において「『価値がある』とはどういうことか?」という問いを発すると、怪訝な顔と共に「そりゃ、金になるか、役に立つかってことだろう」という答えが返ってくるだろう。しかし、すこし冷静に考えてみると、金銭はそれ自体は無価値である。コインやバーチャルなコインにしろ紙幣にしろ、それ自体は何の役にも立たない。だからこそ、媒介として金銭の役目を果たすことができるわけだ。それ自体が無価値であるからこそ、「交換」の媒介となり、その多寡により、購入できるものが決まるに過ぎない。それ故に「価値がある」ことそれ自体と「価格」は直接的な関係はない。さらに訊いてみよう。「では、どういう物差しでその『価格』が決まるのか?」と。そうするとさらに面倒くさそうな顔と共に「役に立つとかカッコイイとか美しいとかだろ?」と答えが返ってくるに違いない。まず、「役に立つ」だが、「何の」という目的が必要である。従ってそれは「手段」の話である。「かっこいい」「美しい」は少し価値それ自体に踏み込んでいるが、では「それはどんな物差しで決まる?」という問いの回答にはならない。だから「価値がある」ことを「金銭的価値」と定義したところで、全く無効である。金銭的価値は「物事の正しさ・良さ」を測る尺度にはなり得ない。また、「役に立つ」ということは何らかの技術の産物であろう。だが、科学技術も「価値中立的」であるからこそ、科学技術足りえるのであって、やはり「物事の正しさ・良さ」を測る尺度にはなり得ない。にもかかわらず、21世紀初頭の今現在、金銭的価値と科学技術(金になるか、役に立つか)、言い換えれば、資本主義と技術主義が主要な「価値の源泉」と見做されている。だが、これらは本来の意味において「価値」とは完全に無関係なものである。だから、いくら高度に発達しても我々はどこかこれらを直観的に「グロテスクなもの」としてとらえてしまう。そのグロテスクなものが中心に据えられている時代状況をさしあたり「ニヒリズム時代」と呼んでおこう。
その「グロテスク」さはどこからくるのだろか。少し前にマイケル・サンデルが『それをお金で買いますか』という本を出していた。その中の例だった気がするが、例えば高度医療(臓器移植等)を受けるためにはかなりの費用がかかる。すると、金銭の多寡により、生命をつなぐチャンスに違いがあることになる。それは突き詰めれば「命を金銭で贖う」ということにしかならない。死は相変わらず誰にでも平等ではあるが、その引き延ばしは金銭による。そこに我々は「生命に対する冒涜」を見てしまう。そして恐らくはそれを「グロテスク」と感じる。少なくともここで、価値の物差しは生命であり、本来はそれをつなぐ手段である医療を金銭で贖うという行為に、どういうわけか価値の混乱を見てしまうわけである。「生きるチャンスは平等であるべきだ」という陳腐な意識のせいであろうか?少なくとも直観的に「正しい・良い」とは考えにくい。
また軍事に関する科学技術もそれが言える。古来より、戦場は悲惨であると同時に英雄が生まれる場所であった。しかし、産業革命後の第一次世界大戦あたりから様相が変わり始める。戦車や飛行機などの近代兵器が登場し、個人の武勇と戦果があまり関係がなくなる。それでもまだ戦闘機同士の戦いのような武勇の要素が残り、エースパイロットというような中世の英雄の残照があった。しかし、核兵器の登場により、少なくとも大国同士の勝敗は戦う前から決定されてしまう。そこには個人の武勇など入り込む隙はなく、相互破壊認証(MAD)による「銃を突きつけ合った平和」という形で平和をもたらした。やはりどこかこの状態を「グロテスク」と直感する。ひとつ前の例と同様、「正しい・良い」とは考えにくい。
しかし、諦念からスタートするリアリストである我々にとって、これらをただ主観的に否定して「ユートピア探し」をしても、それはただの逃避行動でしかない。故にここを出発点にするしかない。これらの「グロテスクさ」を受け入れつつ、しかしそれを少しでも減らしていくという立場に立たざるを得ない。これは並大抵のことではないと考える。これは哲学上の大問題であり、ニーチェをもってしても、これらの問題に対して「超人」というトリッキーなたとえ話を持ってこざるを得なかったような大問題である。ニーチェの言う「超人」とは「価値を自ら作り出す者」という意味だが、その著書のどこを読んでも、「超人とは何か」について真っすぐな回答は記されていない。「~ではない」という否定形で示されているだけである。ユートピア主義者であまり好きではないが、内田樹の例えが適切だろう。「超人とは『人間』の上に引かれたバーチャルな抹消線である」というのが、ニーチェの示したニヒリズムの克服の方向性であった。
リアリストは「まずは現状を承認する」ことからしかスタートできないので、自らの価値序列やなんらかの目的をかなり強く意識しないと単なる「ニヒリスト」になりやすい。また、現実が見えている「合理主義者」であることも多いので、広大で複雑な現実を前に無力感にとらわれることも多いだろう。だから、現実主義者は「未来を描く」ことが苦手である。しかし幸か不幸か現代は「数の論理」で動くことが多い。「マッス」でも「畜群」と呼んでもいいが、ようするに「大衆」が主であるような世の中である。大衆とは本質的に「自分で考えること」はできない。したがって、魅力的な何かを提示しないと動かすことはできない。その未来像は虚像でもなんでもいいのだが、虚像のユートピアを提示してしまえば、毛沢東やスターリン、或いは戦後の左翼マスコミと同じになってしまう。
讃岐院の呪詛「皇を取って民とし民を皇となさん」が実現したかのような価値の混乱した現代に我々は生きている。私見を述べれば「大衆」という「人と同じであること」「人のまねをすること」が満足の元であるような人々(だから金持ちか貧乏人とかとは無関係)が最も最強である「民主主義」は肯定できない。こうした人々は本質的に相互模倣的であるので容易に「束」となる。その束に方向付けをすれば「ファシズム」となる。ファッショとは「束」の意である。従ってファシズムは民主主義からしか出てこない。逆に言えば、(大衆)民主主義の究極がファシズムであるといえるだろう。その意味では第三帝国や昭和初期の日本はある種究極の民主主義であったといえるかもしれぬ。
「民主主義」とは「多数決」とイコールではない。イコールなのは「直接民主制」という古代ギリシア時代に失敗が確定した狂気の思想である。別に少数者の意見を尊重せよなどという話ではない。そうではなくて、少なくとも何かに優れた(卓越した)人々を何らかの方法で選出し、議会を形成し、「大衆」という名の「盲目の怪物」を牽制しながら暴走させないことが必要である。これを「議会主義」と呼んでもいいし、「間接民主制」と呼んでもいいが、これは一種の「貴族制」であろう。だがいわゆる「民主主義」よりもはるかに優れた制度である。(それ故、一院制や首相公選制は狂気だと私は考える。結局突き詰めれば「全権委任法」になるからだ。)
では「議会主義」を維持したまま、その先の未来を思い描くために、リアリストはどうすればよいのだろう。処方箋などはもちろんないが、さしあたりニヒリズムに対抗していくために、先ほど挙げた「グロテスクさ」をできるだけ減らしていくという方向性が良いと考える。現代のニヒリズムの根幹はグローバリズム(金融主義的資本主義+科学技術主義)にあるのだから、これを知ることから始めるのがよいのではなかろうか。これらは本質的に「肥大化する欲望」がベースにあるので、克服するのは予見可能な未来には不可能であろう。とすれば、別の価値体系をもって、これに対抗していくぐらいしか方法があるまい。
その価値体系はどこにあるのか?そんなものはない。どこかにあると考えてしまうとそれはユートピア論者と同様である。そうではなくて、過去を参照し、現状を分析し、不条理は不条理として許容し、ゆっくりと価値を構築していく。或いはそのための態度を身に着けていく。その間はさしあたり、常識と直観を信じて「胡散臭いもの」を回避、或いは戦っていく。言い換えれば、グロテスクなものを回避したり叩き潰したりする。そうして支配的な思想であるグローバリズムに押し流されそうな「現実」と死ぬまで格闘していくほかあるまい。具体的には「いやーいまはグローバルの時代だよ」などと嘯く馬鹿どもを一人一人糺していくようなことだ。長く地味であまり報われない戦いだが、まともな人間がそれをこなしていくしかない。それを30年も行えば、少し日本がマシな世界になっているかもしれない。次の世代へ少しだけ世界をマシにして引き渡すことが我らのできる最善のことであろう。
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