2017年1月19日木曜日

交戦権という主権について(その2)

前回は日本の交戦権について、私の近親者を例にそれぞれの世代がどのように交戦権の停止という「戦争放棄」を捉えていたかをあくまでアウトラインですが書いてみました。従軍した祖父は「米国(中心の世界秩序)による懲罰」として捉えており、戦中派の父(母)は「(懲罰だがそこは留保、判断停止した上で)米国による復興支援を忘れるな」ということです。これが典型とはいいませんが、従軍した世代はある程度「日本の義・米国の義」を相対化しており、戦中(とはいえ実質的に戦後世代)に生まれた世代は「米国の義」しか意識していないか、意識的に日本の義という要素を避けているという風に見えます。
戦後民主主義絶対の中で育った世代としては当然でしょう。今回は交戦権についてをテーマにするので、この点についてはこれ以上深入りせずに早速本題に入りたいと思います。

国家は何のために存在しているのでしょう。言い換えれば国家の目的とは何でしょうか。私の考えでは「その国を構成している国民の幸福を最大化すること」です。個人の幸福は様々ですから、国家が個別にそれを支援していくのは物理的・リソース的に不可能です。であるならば、その目的を達成する(達成し続ける)ために国家がやるべきことは「安心して国民がそれぞれの幸福を追求するために安全を提供する」ことが最低限の公共の福祉でしょう。それが国家の最低限の役割であることには異論が少ないと思います。(従って私はいくつかの国家に見られるような為政者の幸福を目的にしたやある党の繁栄のためのを近代国家とは認めません。)また国家の役割の辞書的な定義としては「社会の秩序と安定を維持していくこと」ですが、秩序と安定にはその前に「安全と安心」がなければ成り立ちません。

さらに現代の主要国家の別の要件としては「議会制民主主義」であることが挙げられるでしょう。「国民の幸福」が国家目標であるならば、人類は今のところこれよりマシな理念(フィクション)を発明できていません。現代の間接民主主義が貴族制議会主義だとかの議論には立ち入らないようにして、すこし、民主主義の原理を考えてみます。

冷静に考えると民主主義というのは、「統治する側と統治される側が同じ」というかなりやっかいな要素を抱えています。ハイレベルのラグビーやサッカーのように、プレイヤー一人ひとりがフォワードやらバックやらという専門性を持ちながらも、ほぼすべての役回りをシームレスにこなしつつ(オートポイエーシス的に)ゴールする事が要求されるものです。そう考えると(あくまで概念的に)民主主義は国民に相当厳しい要求を突きつけるものだと理解しています。

その役回りの内に国家の最低限の役割である「国家の安全」に寄与することも当然ながら論理的な必然として存在します。具体的には兵士として(あるいは将校として)国家を守るということになるでしょう。統治者=被統治者なのですから、誰かが守ってくれるのではなく、国民自身が(つまり私やあなたが)国民自身を守るというのが論理的帰結です。すると民主主義は原則「国民皆兵」になるはずです。繰り返しますがあくまで概念モデルの話であり、現実には様々な社会的・技術的・歴史的・文化的制約から先進国で徴兵制がある国は少数派ではあります。しかし原型としては「国民皆兵」というのが民主主義が要求する「国家の安全」への国民の寄与のあり方です。それを踏まえた上で実際には高い専門性を持つ「プロの軍隊」に本来の義務を委託するというのが現実的な選択となっているのです。

「交戦権の否定」「軍隊の廃止」 という「戦争放棄」というのは、上述のように近代国家を構成する要件のうち、最も基本的な要件を否定するものです。従って、日本国憲法を額面どおりに運用する国家があるとすればそれは近代国家の体をなしていません。あるとすればそれは「保護領」もしくは「属国」です。米国が懲罰的な体裁をさらに裁判という体裁で二重に隠し大日本帝国に仕掛けた「国家解体」のための重要な方策、それこそが日本国憲法であり、とりわけ「第九条:戦争の放棄」であったというのが私の見方です。また同時に軍隊を単なる「悪」と見傚し本来の国民の(市民のと言い換えてもいいです。古代ギリシア以来の市民的義務ですから)義務である兵役を考えることすら国民がしない状態はその「保護領としての状況」を固定化するものでしょう。

もちろん、防共の砦としての役割を日本にも賦してしまったが為に、現実に9条は額面どおりには機能していません。陸海空の自衛隊の存在、とりわけ領空侵犯に対するスクランブルという戦闘機の運用等のおかげでいろいろな留保がつくものの日本は準近代国家ぐらいの位置にはいることができていると考えています。


少し論点を変えましょう。サイレントマジョリティの日本人は9条の廃止(まあ、そう言い切ってよいでしょう)について慎重な態度です。憲法改正論議は一時よりもはるかに自由になり、これだけ自民党の中でも目だって改憲派である安倍政権の支持率が高くとも、そう簡単には9条の廃止に対して前向きにはならないわけです。その理由を考えてみましょう。

一つには「惰性」があるでしょう。「戦後長い間戦争に巻き込まれてこなかったのだから、このままでいい」ということです。これはこれでよく理解できますし、現実と理念のねじれ(憲法上軍隊はないけど自衛隊はある)が、軽武装・経済重視(吉田ドクトリン)とうまく連携し戦後の経済的な繁栄につながったというのも事実です。またそのねじれの為に(或いはうまく利用することで)自衛隊を戦地に派兵することもなく(現実にはいろいろありましたし、今もありますが)今に至るわけです。しかし多くの人がうすうす感じているように、これまでそうだから予見可能な未来にそうであるという理由はありません。日米安保が機能不全になればチャイナ(中共)や場合によっては朝鮮半島が軍事的な行動に出るという可能性はもはや否定できないでしょう。それを見ないように考えないようにするというのが「惰性」です。

二つ目です。こちらが実は真因だと私は考えているのですが、真の意味で「太平洋戦争(大東亜戦争)」の反省ができていないという理由です。ここでいう反省は「一億総懺悔」とか「謝罪外交」とは無関係です。普通に考えて反省とは何かを失敗した時にその原因調査を行い、対策を立てて実行することでしょう。

一般企業で販売した商品の不具合によるリコールが発生したとしましょう。普通に考えて、まず暫定対策を行い、不具合の真因を特定し、対策を立案・実行し、再発防止を徹底し、その上で消費者に謝罪するということをします。ここまでやって消費者側は「反省して、誠実に対応した」と認識しれくれる可能性が出て来ます。そうすれば徐々に信頼を回復できるかもしれません。しかし、単に謝罪をするだけで何もしなければ消費者はその企業を再び信頼することはないでしょう。

難しいのは国家の場合「企業=一般消費者」なのです。少なくとも「企業の従業員=一般消費者」という図式になります。(戦前・戦中とて様々な欠陥がありながらも議会はありました。)

「何故大日本帝国陸海軍は負けたのか?負けるにしても壊滅的な負け方をしたのか?」という原因調査と「では負けない、負けるにしてもここまで壊滅的に負けないためにどうすればいいのか?」という対策の立案がこれまで国民的な議論としてなされてきたでしょうか。もちろん答えは「否」です。

「一部の軍部にだまされて、あるいは強制されて、国民は冒険主義的軍国主義に走り、無謀にもアジアの盟主になろうとして米国という巨大かつ強力な民主主義勢力と戦って敗れ、国民は悲惨な目にあった。ゆえに軍部と軍隊が悪い。(従って国民は悪くない=日本国民は12歳)」という騙り(カタリ)によって自らを思考停止し、反省という名の国際的な謝罪を繰り返したというのが本当のところでしょう。

それゆえに未だに「必ず負けるとわかっていた米国と何故戦ったのか?」「従軍した兵士の大部分が餓死するような作戦が立案・遂行されたのはなぜか?」「占領した国々(フィリピンなど)の協力を得られなかったのはなぜか?」「兵装が古いまま大戦争へ突入してしまったのはなぜか?」「どのように戦争を終結させるつもりだったのか?」「そもそも戦争目的はなんだったのか?」などの素朴で根本的な問いに対する一般的な回答が共有されていません。あるとすれば「軍部が馬鹿だった」という話ですが、これも一種の思考停止です。東京大学より難しかった陸軍士官学校の卒業生たちが、何らかの意味で優秀でなかったわけはないでしょう。また従軍した世代(明治大正昭和初期生まれ)が我々よりも馬鹿だったというはずもありません。

この反省がなされないからこそ、現代の日本人は「軍隊」というものを運用する自信が持てないのです。近代戦が下手なのは下手だとして、またあの「壊滅的な敗戦・破局」を招来してしまうのではないか?という疑問から自由になれないのです。もちろん、その可能性はどこまで行っても付きまといますが、近代国家を、ましてや先進国を名乗るなら、「あの戦争」を反省した上で、軍隊を運用してみせるしかないでしょう。それ以外に我々が江藤淳の戦後空間という「ごっこの世界」の檻から抜け出し、リアリティを取り戻す道はないと私は思うのです。それこそが先人たちへの回答であり、この先も混沌とし弱肉強食であろう未来を生きるしかない子供たちへ渡すバトンではないかと愚考するわけです。

いうまでもないことですが「戦争をしたい」訳ではありません。誰だって(勿論私だって)死にたくありませんし、殺したくもありません。ただその戦争を防ぐために、必要とあらば抜刀できる構えをとらないと、無意味に戦争を招いてしまうと考えているのです。想像以上の頻度で「チャイナ・韓国・ロシアそして台湾」の領空侵犯はおきています。そこでもしスクランブルを航空自衛隊が実施しなければ「日本は抵抗しないぞ」という誤ったメッセージを相手に渡してしまうでしょう。
現実にはすでに帯刀しているのです。ただ「帯刀禁止」という憲法が、現実に戦わねばならない自衛隊員を苦しめ、日本人の目を現実から背けさせ、対米依存以外の道を考えさせないのです。その状況は一刻も早く是正させるべきというのが私の考えです。



第一歩は真の「反省」ではないでしょうか。

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