2017年3月10日金曜日

知らないし興味もない人々

先日、妻とたわいのないおしゃべりをしていた際にどうしたわけか、赤尾敏の話になりました。妻の勤める会社での食後の放談の席で少し話題になったようです。その際に同僚の女性(女性だけの食事でしょう)が「ほら、安倍さんは戦争したがっているから」と発言したそうです。「そういう連中はまだまだいるんだなあ」と思っただけでしたが、すこし考えてみることにします。

その発言をした女性がどのような人かは一面識もない私にはわかりません。ある種の確信犯的プロ市民かもしれませんが、まあ確率論からするとその可能性は低いでしょう。ある意味で典型的な「オバちゃん」の発言と捉えて話を書いていきます。だいぶ減ったとは言え、まだまだこのような「オッちゃん・オバちゃん」がマジョリティでしょうから。

別に悪いとは言いませんが、この手の人々は本当のところ、半径10メートルより外の世界にはほぼ興味がないと考えたほうがよさそうです。勿論、たいていテレビは大好きですから、トランプ大統領や小池都知事、安倍首相やらを知らないわけではありません。ただこの人々は「政界」や「外国」を地続きの世界とは捉えていません(理解はしているのでしょうが)。基本的には「芸能人」と「政治家」が頭の中の同じ箱に入っているでしょう。すなわち、自分とは関係がないけれど、とりあえず「有名人」という箱に。或いは「テレビに出てる人」の箱かもしれません。

実際にはテレビの向こうの「芸能人」が何を言おうが、何をしようが、われわれの生活にはほとんど影響がありません。せいぜい「快・不快」の感覚が残るだけでしょう。ところが「政治家」はそうは行きません。彼らの言動は立法・行政・司法を通じてわれわれの生活に直接入り込んできます。政治家が経済政策を間違えれば、父ちゃんの給料はさっぱり上がりませんし、為替相場が変動して、ボーナスは減るし、物価はあがるし、なんてことになったりするわけです。しかし、マジョリティの「オッちゃん・オバちゃん」はそうは考えないようです。というより考えられないのでしょう。

こうした人々を嗤うのは簡単ですが、マジョリティである以上、無視するわけにもいきません。というよりも「世論」はこの人々の声の束のことですし、その束が同じ方向を向いたときには、抗う術すらない怪物になります。現代の「リヴァイアサン」と呼ぶべきかもしれません。ちなみに束はラテン語で「ファスケス」即ち「ファシズム」の語源でもあります。実はこのリヴァイアサンがファシズムの生みの親であるわけです。

とここまで考えると「オッちゃん・オバちゃん」一人ひとりは単なる(不勉強な)善良な市民でしかありませんが、怪物「リヴァイアサン」を構成する恐るべき人々であることがわかります。この怪物をどう手懐けるのかというのが、「リヴァイアサン」に主権を与えてしまっている民主主義世界のファーストプライオリティなのかもしれません。というよりも政治家は本能的にファーストプライオリティとして行動しているでしょうが。

このリヴァイアサンを構成する「オッちゃん・オバちゃん」は抽象的に物事を考えることができません。というより抽象的な思考を受け付けません(私の文章のうまい下手は別にして、何を書いてあるか理解できないでしょう)。また、思慮に欠けるので基本的に脊椎反射で物事に対応します。この無思慮な脊椎反射が束になるとどのような力が振るわれるのかは、昨年の「保育園落ちた、日本死ね」騒動を思い出すだけで十分でしょう。これは「はてなブログ」に匿名で投稿された文章があれよあれよという間に国会での討議のネタになったというものです。とはいえ、保育園不足、待機児童問題はずっと前からあり、「はてなブログ」に限らず、専門家も市井の人も数値的根拠や自らの経験から理知的に声を上げていました。ある程度はこの声が「待機児童問題」として認知されましたが、結局爆発的な広まりを見せたのは「保育園落ちた、日本死ね 」な訳です。ベクトルが違うだけで「鬼畜米英」と同じセンスだと私は思います。

残念ながら、戦前も日本は議会制民主主義の国でした。帝国議会の議員は基本的に選挙を経るため、世論というものから自由になれません。いわゆる普通選挙が実施されている戦後はなおさらそうです。大東亜戦争は「オッちゃん・オバちゃん」の脳内にある「陸軍を中心とした一部の軍国主義者が善良な市民をだまして無謀な戦争を始めた」訳ではありません。端的に言って、市井のマジョリティ「オッちゃん・オバちゃん」達が軍人もびっくりの軍国主義的マスメディアにあおられて、「鬼畜米英!」「暴支膺懲!」と言い出したから、帝国議会が翼賛化したのです。

この「オッちゃん・オバちゃん」という「知らないし興味もない人々」というリヴァイアサンをどのように弱体化させる、言い替えれば「知らないし興味もない人々 」をどう減らすのかというのが、政治家やマスメディア、官僚、教育のような「インテリ」な人々の重要な「高貴なる責務」でしょう。


そのアルファにしてオメガの方法は「自分で調べて、自分で考える」ことを当たり前にすることでしょうが、これほど困難なこともあまりないように思います。

2017年2月26日日曜日

芸術と商売

「お前などは彫像を商うよりも、豆でも商っているほうがふさわしい」

花の都フィレンツェがルネサンスの中心であった14世紀から15世紀に活躍した彫刻家のドナテッロをご存知でしょうか。重要な芸術家なので美術史や世界史の授業では大抵触れられているはずですが、レオナルド・ダ・ヴィンチ程には知られていない芸術家です。しかしその胆力は豪胆で知られるレオナルドに勝るとも劣りません。

「ある時、ジェノヴァの一商人が、ドナテッロにブロンズの頭部像を注文した。仲介をしたのは、メディチ家の当主で、当時のフィレンツェの事実上の支配者でもあり、ドナテッロのパトロンでもあったコシモ(コシモ・デ・メディチ)である。ブロンズ像は、見事に完成した。商人も、満足のようだった。ただ、ジェノヴァ商人にしてみれば、ドナッテロの要求した額が、非常識に思えたのである。ブロンズ像制作に要した期間は、一ヶ月かそれに少し足した期間にすぎない。一日分の労賃を半フィオリーノとしても、高すぎる、というわけである。
(中略)
『おまえなどは、彫像を商うよりも、豆でも商っているほうがふさわしい』
 といって、つくりあげたばかりの像を窓から投げ捨てた。道路にたたきつけられた像は、ひしゃげたブロンズのかたまりと化してしまった。

後悔したジェノヴァ人は、言い値の二倍だすからもう一度つくってくれという。だが、ドナッテロはもう耳を貸さなかった。コシモ・デ・メディチが推めても、耳を籍さなかった。」(塩野七生『わが友マキアヴェッリ』より)

これを読んでどう思われたでしょうか。ジェノヴァの商人に同情しますか?それともドナテッロにシンパシーを感じますか?1フィオリーノはおよそ12万円と考えて良いようです(現在の貨幣に換算するのは難しいですが、ざっくりと)。
すると大体6万円/日×30日として180万円という計算になります。このときにドナテッロが要求した額はわかりませんが、たとえば1000万円とだとしましょう。すると、人月単価で180万円(これだってマネジャークラスのSEもしくは、独立系のコンサル並みの価格です)で製作したものの付加価値が1000万円-180万円、即ち820万円であるとドナテッロは主張したわけです。

見積の提示はきっとなかったのでしょう。当時既に知られた存在であったドナテッロに、最高権力者のコシモを経由してアプローチしたのですから、ジェノヴァの商人もある程度は「はずんでやろう」とは思っていたに違いありません。おそらく、相場の2-3倍ぐらいを考えていたと想像します。「一日分の労賃を半フィオリーノとしても・・・云々」と言ってますから、きっと相場の一日分は1/4フィオリーノ即ち3万円ぐらいだとして、3×30日で90万円、その倍額として180万ぐらいを想像していたのではないでしょうか。ところが、ドナテッロの要求額は桁が違いました。



ジェノヴァの商人は後悔して「言い値の二倍だす」と言っているのですから、芸術の観点で価値が分からない人間ではないのでしょう。しかし、商人としてのセンスがドナテッロの要求額が非常識と思わせ、結果、傑作(だったかも知れない)を無価値なブロンズの塊にしてしまったのです。



一見、非常識な芸術家の非合理な言動に常識的な商売人が翻弄された話に読めますが、現代の我々が後出し的に眺めるとドナテッロが正しかったことが分かります。ドナテッロの彫刻は不滅の価値を持ったのですから。実はここに我々日本の企業とビジネスマンの限界と突破口があるように思えます。

2016年のアドビシステムズの調査では世界一クリエイティビティの高い都市は東京であると評価されているのにもかかわらず、自らをクリエイティブとと考える人の割合は、案の定最下位であり、クリエイティビティへの投資が成長のカギと考える人の割合も最下位でした。日本人はドナテッロであることに気がつかないということのようです。或いは、未だに「ドナテッロなど日本に生まれる訳はない」とでも思っているのでしょうか。ここから見えてくることの一つに「評価」の力が不足しているということが考えられます。

何かの価値を測る場面、例えば「新しい製品の価格を決める」という状況を考えてみましょう。ある製品の価格案を作成するよう頼まれたとしましょう。どうやってその製品の値段を決めればいいのでしょうか。既存製品の多い分野ならば「相場」や「他社見合い」でおよその価格が決定できるでしょう。後は原価率などから最大限の粗利が取れるように設定すればよいのです。しかし、世の中にないもの、新規性の高い製品だったらどうでしょう。

それでもまずは競合になりうる既存製品の相場を調べるでしょう。その製品の要素を分解して、それぞれの競合製品の価格を調べ、コスト計算を行い、投資回収のシミュレーションを行い、そこから付加価値分を含めた妥当な価格を導き出すという作業をするのではないでしょうか。しかし、この付加価値分というのがなかなか曲者で、B2Bの分野ではどうしても製品購入の投資対効果(ROI)が求められるます。それは値引きの方向に引っ張られるので、取り合えず「えいやっ!」と高めに設定するしかありません。ここでは高めというのがミソです。値引きは後からいくらでもできますが、自分の意思での値上げはまず無理だからです。

更に難しいのが人月商売です。人月単価をいくらにするのか?というのはなかなか難しいものです。システム構築(SI)の世界なら、ゼネコン同様に多重請け構造になっているため、およそ相場が決まっており一次請けベンダで1人月(一人が一ヶ月≒20日働く単位)で、100万円~150万円、二次請け三次請けで50万円~100万円というところでしょう。それをベースに何人月でシステムが構築できるかを事前に見積りし、価格を決定するのです。ところが、この見積は多くの場合外れます。自社内で完結してればいいですが、下請けを使っていると粗利がどんどん削られていき、赤字プロジェクトになったり、メンバーが徹夜に継ぐ徹夜のようなデスマーチがよく発生します。

さて、ここで経営者が考えるべきはどうやって「ドナテッロ」になるかです。本当に貴社の技術者は売価で100万円くらいの価値しかないのでしょうか?貴社に蓄積されているノウハウや知的財産、バックアップ体制やネームバリュー、何より価格以外の差別性を突き詰めましょう。もし「安価であること」しか差別要因がないのなら、それ以外の要因を出来るだけ早くつくることが経営者のやるべきことです。貴社にしかできないことは何か?これを突き詰めることが正しい自己評価につながるはずです。それができればたとえ腹の中だろうと、元請け会社に「お前は豆でも商っているほうがふさわしい」ということができるでしょう。そうすることで、投資すべき会社や案件の目利きポイントが少しずつ分かってくるはずです。

自分(自社)にしかない価値を見つけ、或いは徹底的に作り上げ、最大公約数的な価値から代替不可能な価値の提供へ変換する。それはマス・プロダクトよりも芸術品に似ています。芸術品は全ての人が理解できる必要はありません。理解できる人が高い価値を感じればそれでいいのです。あまりにも当たり前のことですが、我々は合理的になることによってのリスク回避にあまりにも偏っているのではないでしょうか。合理性とは誰もが理解できることの言い換えなので、それを追及すると、どこにでもあるモノやサービスになりがちです。リスク回避は絶対に重要ですが、それにとらわれ過ぎるとどこかの銀行のように「担保と保証」ばかりに依存意するようになります。それでは芸術品は創ることはできません。ドナテッロに鼻で笑われてしまうでしょう。

我々日本人は「ドナテッロ」だと世界は見ているのです。堂々と見合う金額を提示し「得をするのはあなたです」と言い切ってやりましょう。本当の価値など誰にもわかりません。ストーキングツールでしかなかったFacebookがこれほどの収益を生み出す企業になるなど誰一人予想できなかったはずです。まずは自分が納得できるまで努力して「うちの商品・サービス・技術者は傑作だ」と言い切ってしまいましょう。どうせ評価するのは他人ですが、全力を傾けたモノを「どこにでもある」と卑下すると、あたら傑作を無価値なブロンズの塊にしてしまうかもしれません。 (と半分自分に言い聞かせていたりしますが。)

2017年2月20日月曜日

日本的「リベラリズム」

ご多分にもれず、私は消極的自民党支持者であり、他の代替政党よりはマシという理由だけで自民党を支持している。経済政策を中心に到底支持できないことも安倍内閣は多いのだが、民進党をふくめた日本の「リベラル」と称する政党が到底選択肢になり得ないので仕方がない。また日本維新の会は到底支持できない。理由は本文を読んで頂くとわかると思うが、「維新」といいだす政治家はろくでもないという常識による。選挙というのは「クソの中からマシなクソを選ぶ」ことが民主主義ではあるべき姿なので、「ましなクソ」自民党しか選ぶところがないという状況については、それはそれでよい。ウィンストン・チャーチルの「最悪の政治家を選ぶのは難しい。これこそ最悪と思ったら、すぐにもっと悪いのがでてくるからだ。」というのが真理であろう。



日本の「リベラル」というのは何なのだろうか?知ろうともせずに批判だけするのは私の流儀ではないので、これまでそれなりに調べてみたり、国政のではないが政治家と議論したりもした。その結果の途中経過報告でしかないが、目下のところの私なりの結論は「日本の伝統的な悪しきインテリ」というものだ。左翼とかサヨクとか反日日本人とか色々いわれているが、これでは反日でないリベラルとか、いわゆる社会主義や共産主義にシンパシーを感じていないリベラルを定義できない。しかし、リベラルと自称するのは大抵「知的職業」と言われる職種に就いている(自称)インテリが殆どであり、ある意味で戦前どころか、奈良・平安の昔から存在するタイプだと思えてきたので、上述のような定義とした。

慕夏思想(ぼかしそう)という言葉がある。山本七平が『現人神の創作者たち』の中で触れたものだが、特殊な復古主義的理想主義である。「慕」は慕うという意味であり、「夏」は伝説の古代中国の王朝の名であるから、意味自体は簡単で、「夏のようになりたい」ということだ。つまり、ここではないどこかに理想的な国があり、そこと自国を比較した上で、その相違点を批判するというような態度のことである。大陸の辺境に位置する日本は、近代以前は西方からあらゆる文物を取り込んだ。平安末期まではあきらかに西方、即ち中国大陸が文化文明的に先進的であったため、日本人は「優れた文物は西方から入ってくる。」と考えていたらしい。それは裏返すと「自国の文物は西方からのモノに劣る。」と考えていたということでもある。従って、水戸光圀のような人も「明帝国」を理想とし、そこから日本を批判するというようなスタンスであった。

慕夏思想それ自体は良いも悪いもなく、中心的な文明の傍にあった辺境的文明の特質なのかもしれないが、本来は「慕夏主義」とでも称すべき集団や階層が「リベラル」という名前を名乗っていることに言葉の混乱があり、その混乱が日本の「リベラル」たちに妙な力を与えている。本来は単なる慕夏主義≒出羽守でしかないのに、あたかもご立派な思想があるかのように本人たちの自覚無く僭称させてしまっているのではあるまいか。

彼らはあくまでも「批判者」である。構造としては、「私たちは真理を知っているが、無知蒙昧な大多数はそれを知らない。(その結果、世の中が理想郷から遠ざかっている。)」というものだ。それゆえに、1.自分たちが知的階層(インテリ)であると自己規定していること、それゆえに、2.無知蒙昧な多数を指導することを使命、乃至は正義と考えていること、3.構造的に批判される立場となる与党にはなれない(なると失敗する。民進党を見よ。)こと、が彼らの本質である。従って、彼らが真理と思い込む「教義」は何でもよい。リベラリズムだろうが、軍国主義であろうが、ファシズムであろうが、共産主義であろうが同じことだ。もちろん朱子学でも大乗仏教でもかまわない。

さらに、本質的に「批判者」でしかないので、将来に向けた展望(ビジネス用語で言えばロードマップ)は持っていないし、「教義」の理解さえ不十分であることが多い。持っているのは妙なユートピア思想(理想とする「夏」)のイメージだけである。例えば共産主義の理想が達成されていると自ら看做している「ソ連」でも「北朝鮮」でも「地上の楽園」とは喧伝するものの、それではどのようなステップでそれを達成するのか?という展望は大抵皆無であって、せいぜい革命ごっこをして、象徴的に何か事を起こせばあとは何とかなる(後に続く者がでてくる)という根拠のない思い込みだけしか持っていない。

ところが、この「慕夏主義者」たちは、日本の歴史の中で一定の力を持ってしまう。そこが日本人の弱点であり、「反省」すべき大きなポイントであるにもかかわらず、問題意識さえもたれていないことが多い。この理由を解き明かしたいとは考えているが、おそらく純粋・理想を尊ぶ妙な赤心主義(赤穂事件など)や事大主義的傾向と関係があるだろうが、それはまだ研究中であるので他の機会に譲るとして、この慕夏主義者の具体例を示してみる。水戸光圀の話は記した。山崎闇斎だのというような明治以前の話は割愛する。明治以降に話を絞ろう。

226事件というクーデターを起こした青年将校たち、或いはその思想的な指導者であった北一輝、それを擁護した当時のメディアが典型的な慕夏主義者たちであろうと思う。彼らのユートピアは天皇親政の「宋学」の世界であった。その意味では「後醍醐帝」に近い心情だったかもしれない。

青年将校の首謀者の一人安藤大尉はまじめでやさしい人だっただろう。中隊長として部下の信頼も厚い将校であったそうだ。当時東北地方は恐慌の影響に加え、歴史的な飢饉に見舞われていた。貧困と飢饉のなか、300戸の部落から200人の娘が売られているというような、想像を絶する惨状だった。部下の東北出身者にはそっと自分の月給をわけるような安藤大尉だったが、北一輝や皇族、或いは他の青年将校達とのふれあいの中で、権力中枢と財界の腐敗がこの現状の主要因であり、世論はかれらにだまされている、即ち「盲いたる民、世に踊る」という状況だと考えるに至る。「昭和維新・尊王討奸」というスローガンは彼らの心持をよくあらわしているのだろう。そして安藤大尉や青年将校たちの主観では「巨悪である重臣たちを取り除くことによって、天皇親政の理想郷が実現する」というのが正義となった。しかしクーデターは失敗し、彼らの主観では巨悪の、しかし実際には有能かつ民のことを考えた大蔵大臣高橋是清を殺し、彼らの主観では自分たちが尽くしているはず(=自分たちを支持してくれるはず)の昭和天皇に拒絶され、反逆罪で処刑されるに至る。

結局、「天皇親政」という理想郷を設定して、現状をただ憂いて批判するだけで、自分たちの理想に向けたステップを粘り強く推進するというようなロードマップを考えず、単純に「クーデターを起こせば何とかなる。自分たちは理想の捨石となるのだ。」というようなヒロイズムにとらわれ、与党になる、即ち、「軍の中枢に上り詰めて改革・改善をする」という王道を行かなかった。

厳しいようだが、幼稚な理想主義であり(命を懸けてのクーデター未遂は一定の敬意を表すが)、北一輝のような慕夏主義的インテリに共鳴し、新聞紙上を賑わす「昭和維新」的な「悪しき」インテリに呼応することで「国家社会主義」という理論的根拠を得たような気になって自滅したというのが、226事件の顛末であった。

国家社会主義といえば、ナチス党である。山本七平によれば、青年将校たちはこぞってナチスドイツの将校たちの真似をしたそうだ。青年将校の理想郷は(彼らの妄想する)第三帝国であったのだろうか。

戦後は丸山真男を始め、いわゆる左翼インテリが慕夏主義者であった。ソヴィエトを理想郷とし、社会主義理論を振りかざし、「連帯(共産主義革命)」をスローガンとして、クーデターですらないデモを起こしはするものの、政権奪取の展望は無く、ただひたすら自民党と戦前日本の批判者として一定の影響力を持ち続けた。彼らは決して与党精神を持つことなく、226の将校たちのように命を懸けることもせず、ひたすら批判しただけである。こちらについては解説不要だろう。だいぶ力が弱まっているとは言え、現在でも彼らは健在だからだ。彼らの教義は「共産主義」→「社会主義」→「リベラリズム」と変遷しているが、それ自体に意味はない。ただ、世界情勢が変わって、正義を気取るためのトレンド、あるいは変遷する理想郷を追いかけているだけである。繰り返すがただの批判者であるため教義は何だって良いのである。

ただし、メディアが煽りすぎて政権を奪取してしまうと、そもそも与党精神、あるいは当事者意識が欠けているため、旧社会党や旧民主党のように政権担当能力は皆無であることを露呈してしまう。

「慕夏思想」は日本人の弱点である。思想の左右を問わず、なぜか「慕夏思想の悪しきインテリ」一定の力を持ってしまう。その理由の一つとして慕夏思想に戦前・戦後一環して忠実な「朝日新聞」に代表されるマスメディアの存在があるだろう。226に対しては減刑運動を展開し、軍人もびっくりの軍国主義を煽り、戦後は言わずもがなである。

結局、日本のリベラルは「リベラリズム=自由主義」とは無関係である。それは単なる慕夏思想による体制批判の「心情」を持ち、正義に「自己陶酔」する特殊な理想主義者の一団でしかない。それを一定数がなぜ支持するのかは、また稿を改めて考えたい。

2017年2月15日水曜日

破壊的イノベーションの生まれる時

趣味の一つで飛行機のプラモデル制作をしています。所謂、実物をスケールダウンした、スケールモデル専門です。いい年をして何が面白いのかという疑問がおありでしょうが、これが面白いのです。一つには立体を組み上げるという楽しさですが、これなら何を作っても同じ楽しみはあります。世代的には「ガンプラ」も楽しいものです。(ちなみにグフが好きです)しかしスケールモデルは実物があるので、実物を見たり、いろいろな資料を当たりながらプラモデルに落とし込んでいくということができます。なかでも飛行機は実物をそう簡単に所有できるわけでなく、古い飛行機ならば資料しかありません。書籍やネット、博物館などに行ってそれらを漁るのも飛行機モデル作りの醍醐味だと勝手に考えています。

私もそうですが、飛行機モデル好きの7割ぐらいは「戦闘機」が一番好きなのではないでしょうか。身近な旅客機やエアレーサーのような民間機も格好いいのですが、軍用機、とりわけ戦闘機はやたらと格好よく見えます。軍用機は戦闘機以外にも、輸送機・爆撃機・攻撃機・偵察機など様々ありますが、「飛行機を叩き落とす」という目的のために作られた戦闘機は、いわば「猛禽類の精悍さ」のようなものがあるように思えます。何しろ、敵だって同じようにこちらの飛行機を叩き落とそうとするわけですから、少しでも「速く・高く・すばしこく」なければなりません。そうやってしのぎを削って性能向上してきた結果、贅肉のない機能美のようなものを戦闘機は纏ったのでしょう。

1903年にライト兄弟が人類初の動力飛行をしてから様々な発明とイノベーションを繰り返し、主に軍用機の分野で今日の情報技術のような異常発達をしてきた飛行機ですが、1930年から40年代までにプロペラ機(ピストンエンジンで飛ぶレシプロ機)はほぼ完成の域に達します。「速く・高く・すばしこく」の内、「速く」というのがこの時点での軍用機の最重要な要件になっていました。とりわけ戦闘機では「速さ」は他の全ての要素を圧倒するほどの重要な要件でした。少々「すばしこさ(旋回性能・格闘性)」が悪くても、速度さえあれば敵機を圧倒できます。各国(英・米・独・日の列強。この時点ではソ連は入りません)が開発競争を繰り返した結果、およそ実用機で600km/h〜700km/h、どれほど頑張っても、800km/hぐらいがプロペラ機の限界というのがわかってきました。いわゆる「音速の壁」です。プロペラというのは回転速度が速くなればなるほど効率が落ちます。音速に近づくと空気が圧縮されてしまうのがその理由です。音速はおよそ1225km/h(≒マッハ1)ですから800km/hでもだいぶ余裕がありそうですが、機体が音速になる前にプロペラの速度が部分的に音速近くになってしまい、その結果スピードが頭打ちとなるわけです。ちなみに600km/hを越えるとまずまず高速機と言っていいというのがおよそ第二次大戦末期までの状況です。

そんな中、1944年のドイツで「破壊的イノベーション」が起きます。史上初の実用ジェット戦闘機が運用を開始しました。メッサーシュミットMe262です。先述のように実用戦闘機の速度が600km/h〜700km/hという時期に、このプロペラを持たない異様な姿の戦闘機は一気に870km/hという桁違いの速さで敵機を圧倒し始めます。同時代の敵味方の最新鋭機の速度差が200km/h近くも開いたことはありません。生みの親のドイツはそれでも戦局をひっくり返すことはできず、第三帝国は崩壊しましたが、ジェット戦闘機はまさしく破壊的イノベーションであり、それ以降プロペラ戦闘機はもはや過去の遺物となっていったのです。ある意味、現代の全てのジェット機の直接の始祖鳥がこのMe262です。


さて、Me262は発明ではありません。あくまでイノベーション(新結合・革新)の産物です。ジェットエンジンの原理の発明はなんと1791年。さらに実際にジェットエンジンが動いたのはライト兄弟の初飛行の年1903年です。それをさらに洗練させてターボジェットに仕立てたのが、イギリスのホイットルとドイツのオハインで、1930年代に戦闘機開発に適用されはじめ、既存の機体設計技術と結びついてMe262が実用化されたわけです。この破壊的イノベーションはナチスドイツを救えませんでしたが、ガラケーが駆逐されたごとく、短期間にプロペラ戦闘機を駆逐してしまいました。これ以降プロペラ戦闘機が新規に開発されることはもはやありませんでした。

この破壊的イノベーションは難産でした。まず0→1と1→100を成し遂げた企業と人物が違います。0→1を実現したのはターボジェットの生みの親オハインを擁するハインケル社です。政治的にナチと反りが合わないエルンスト・ハインケル社長は総統のヒトラーや空軍元帥のゲーリングに嫌われ、作り上げた試作ジェット戦闘機を量産させてもらえませんでした。ただこの試作機も650km/hを超えていため、いくらハインケルが嫌いでも首脳部は無視できず、社長がナチ党党員のメッサーシュミット社にジェット戦闘機を開発させます。ヴィリー・メッサーシュミット社長兼設計技師はただのゴマスリ野郎ではなかったため、ハインケル(というかオハインの)発想を下敷きにしつつも、後退翼のような新機軸の技術を盛り込んだMe262を完成させ、1→50ぐらいまでやりきります。これにはナチ上層部に気に入られているという立場を利用した政治力が不可欠でした。というのもエンジンを担当したBMWは最後までハインケル以上のエンジンを完成させ得ず、計画が何度も挫折しかかっているからです。結局エンジンを完成させたのはユンカース社でした。もしも主任技師がメッサーシュミットではなく、ハインケルであれば実用化どころか葬り去られていた可能性が高いでしょう。

そして残りの50→100を成し遂げたのは現場の実力者アドルフ・ガランド少将を中心とした現場です。最後までジェット機の本質を理解できなかったトップのヒトラーと違い、歴戦のパイロット(というかスーパーエースの一人)であるガランドは試作のMe262に試乗して「天使が推してくれているようだ」と語り、現場の戦闘機生産を徹底的に絞ってMe262を集中生産すべきと主張します。煙たがられながらもガランドは執念深く首脳部を宥めすかして説得し、半ば勝手に生き残りの優秀なパイロットをかき集めてジェット戦闘機隊を作ります。そして、圧倒的な性能とパイロットの技量で米軍を中心とした連合国に一泡吹かせ、ジェット戦闘機が次の時代のスタンダードであることを示したというのがイノベーションの実現までの大雑把なストーリーです。

こうしてみると、イノベーションを生み出すことと事業として成立させることは全く別のことであり、オリジネイターよりもコピーキャットの方がより良いプロダクトを作り、成功させることもあるということがわかります。例えば今時のビジネスマンなら誰でもお世話になっているマイクロソフトのパワーポイントも、元々は別の会社が開発したプロダクトでしたがマイクロソフトが会社ごと買収したことで、プレゼンテーションソフトのスタンダードになったわけです。もちろん、スティーブ・ジョブズ式に0→100を自分&自社でやるということもあり得ますが、これは例外中の例外と考えた方が無難でしょう。大企業の経営トップが死ぬまでイノベーターであり続けるというのは例外です。
ジェット戦闘機の始祖でさえオリジネイターではないのですから、政治力や営業力が強みであるという大企業は積極的に中小企業やスタートアップに大いに投資すべきなのかもしれません。少なくとも成功しかけている中小やスタートアップに投資するか買収してアイデアを戴いてしまう方が、0から自分で考えるよりも遥かに成功率が高いでしょう。
ただしトップのヒトラーは最後までジェット戦闘機の本質がわからず、Me262を爆撃機として運用しようとしていました。様々な理由からこの時点ではジェット爆撃機はあまり意味がありませんでした。その意味で投資に値するかを見抜く眼、あるいは伯楽の役割をもつガランドのようなキーマンが重要になってきます。善悪好悪から離れて一考の余地があると思いますがいかがでしょうか。

2017年2月11日土曜日

ワークスタイル変革というけれど

先日、SANSAN株式会社が主催した「SANSAN Innovation Project2017」という展示会兼セミナーに参加してきました。諸事情がありまして、ほんの一部しか参加できませんでしたが某IT企業の社長や副社長の座談会などききながら、ぼんやりと考え事をしていました。座談会のお題は「ワークスタイル変革」。近頃よく聞く言葉です。単なるバズワードかもしれませんが。

「ワークスタイル変革」とは、結局のところ「新事業を構築したり、劇的に効率化したり」するためのイノベーション(革新)を起こす為に、働き方から見直してみよう」という取り組みというのが一般的な解釈でしょう。もっと突き詰めれば、「働き方を変えれば結果が変わる(はず)」ということになろうかと思います。

「ワークスタイル変革」などと銘打たなくとも、これまで働き方というのは結構変わってきました。古くは電信技術・・・なんて歴史を紐解かなくとも、この15年くらいの間に、インターネットを中心に「電子ファイル&メール」がオフィスワークの中心になり、SNSの発達でB2Cマーケティングのあり方は変わり、クラウドソーシングやクラウドファウンディングというようなヒトモノカネをインターネットで調達できるという猛烈な変革がありました。その結果、働く側が少しでもラクになったか、楽しくなったか、というと少なくとも企業勤めのサラリーマンはむしろ多忙になったというのが実感ではないでしょうか。

情報技術の発達が寄与したのは「効率の劇的な向上」でした。早い話が10日かかる仕事が1日で出来るようになったので、その分10倍仕事をするようになったという事に尽きます。特にオフィスワークはそうです。仕事柄いろいろなオフィスを訪問しますし、自分の所属する会社をみても、「みんな疲れているなあ」と感じます。どちらかというと、効率化がもたらしたものは、その追求による「現場の疲弊」だったのではないかという気がします。顧客満足度は大幅に向上したでしょう。(何しろ、ネットで注文すると下手するとその日のうちに届くという異常発達ぶりですし)ですが、従業員満足度はむしろ下がったと思います。現場からまったく「余裕」というものがなくなったのが、情報技術の発達の帰結ではないかと。

ところで、企業活動の効率化を実現するのにほとんどこれしかないという方法が「標準化と整流化」です。業務をプロセス単位にモデル化し、流れを分析して、どこがボトルネックになっているかをあぶり出し、そのプロセスをどうすれば標準化できるかを考え実行すると結果として整流化がなされます。このステップを踏めば、ほぼ全ての現場で効率はアップします。またそのプロセスをITを利用して自動化してしまうことで、省力化し、アウトプットを減らさずに人員のカットでさえ可能となります。
業務コンサルティングの肝はこれだけといえばこれだけで、どんな仕事でも工場のラインのごとく誰がやっても整然とこなせる状況を実現するということです。

その結果、コンサルや経営側はギリギリの効率を狙いますので、人は減るのに仕事は増える(で、給料はあがらない)という状況になります。従業員満足度はむしろ下がります。さらにプロセスに区切られた仕事はKPI(その時点で達成すべき数字)で管理されますので、割合とギスギスします。日本の大企業はかなり標準化されていますので、かなりの確立で「不機嫌な職場」と化していることが多いでしょう。(偏見だといいですが)

さて、効率化と革新(イノベーション)は普通に考えると非常に相性が悪いものです。ある意味極限まで効率化された働き方(業務プロセス・勤務形態・人事評価諸々)は精密機械のようなもので「思いつきの行動」を許容できません。それを許せば間違いなく効率が下がりますし、複数の人間がいくつかのプロセスをスクラムを組むように進めているケースが多い現代の職場では、一人の思いつきの行動がかなりのダメージを業務に与えてしまう可能性があります。もちろん、多くの業務ではさらなる効率化、合理化を志向していますから「プロセスの改善」は常に起きます。しかし、その職場からプロセス・イノベーションと呼べるような革新的な改善はなかなか難しいのです。何故ならば、その変革のために一時的であれ、せっかく標準化と整流化を実現し精密機械と化した業務を混乱させる必要があり、ビジネスにマイナスのインパクトを与えるからです。いわゆるイノベーションのジレンマというものですね。

この状況からセレンディピティやら個人の勝手な探求やらが必要な「イノベーション」が生まれるとは想像できません。スタートアップ企業のように、これから或は今まさに「ビジネスの作り込み」をしているならばいざ知らず、「効率化」のフェーズを終えてしまった職場ではイノベーションのための隙間がありません。なので、「働き方を変えて結果を変える」ためのワークスタイル変革とは、隙間を作る、別の言い方をすれば効率を落としてでも少し働き手が余裕を持てる方向になるはずです。時間な余裕(工数)だけでは不十分で、働いているメンバーがそれぞれに考えるだけの精神的、環境的な余裕を持たせる必要があります。そうでなければそもそもアイデアすら出す気にならないでしょう。人間は普通はあまりにも余裕がないと「思考停止」して精神を防衛するものだからです。

ただ実際にはその企業のDNA、もしくは企業文化の中に「隙間を持たせる」ことが最初から組み込まれていないと実践は難しいものです。
その「隙間」そのものに価値があるにもかかわらず、そのDNAが組み込まれていない企業だと、大抵は「もっと効率化して、その結果出てきた時間的余裕(工数)でイノベーションを起こそう」と考えがちです。しかし、まだまだ効率化まで至らないスタートアップを除けばこれはうまく行きません。なぜなら「さらなる効率化」は結局現場のさらなる疲弊を招き、考える余裕を奪う上に、「隙間」それ自体の価値を認めないため、イノベーションをKPI的に管理しようとして、結局小粒のアイデアが言い訳的に出てくるだけになり、出てこなければ「イノベーション」を効率化しようとしたりします。「革新」を「効率化」するなんて悪い冗談でしかありません。

ワークスタイル変革でイノベーションを起こそうとお考えの企業は、まずは従業員が余力を持って、笑顔で働けることを目標に「ワークスタイル変革」を行なうべきでしょう。そしてその「隙間」「余裕」それ自体に価値があると考えてください。そしてその余裕が結果としてイノベーションにつながる(かもしれない)ぐらいに構えるべきです。もし、そんな不確実なことはできない。我が社の社員にそんな能力はないとお考えの上で、それでもイノベーションをと仰るならばベンチャーキャピタルを経由して、有望そうなスタートアップを買ってしまうやり方がより近道だと思います。



結局、不機嫌な職場に「イノベーション」は難しい。ましてや片手間では100%無理。というのが今のところのコンサル屋としての私の結論です。

2017年2月3日金曜日

日の丸ヒコーキ

なにやら堅い話ばかりのブログだと思われているので、少し趣味の話を書いてみます。というのも、私が勝手に「熊本の師匠」とおよびしているブログ主がこちらを覗かれるそうなので、恥ずかしながら飛行機プラモデルの話を書こうと思った訳です。

昔から趣味は結構いろいろありまして、たとえばバンド活動(今でもベース弾きです。少なくともそのつもりです。)居合のような古武術、阿波踊り、ファンラン、写真、美術鑑賞、民俗学研究、神社仏閣巡りなどなどですが、仕事や子供に恵まれたことなどでさっぱりできていません。そんな中、「熊本の師匠」のサイトを見たり、「永遠の0」を読んだりした結果、「そうだ!中学生ぐらいまではプラモデルが好きだった!零戦作りたい!」という思いが復活し、忘れもしない娘が生まれる直前の2013年9月、衝動的にハセガワ社の「1/48 零式艦上戦闘機11/21型」を購入して作り始めました。10月の出産予定日に間に合わせようとガンバリまして(結果間に合いませんでしたが)完成させました。女房も一緒に映画『永遠の0』を鑑賞したこともあって、とりあえず理解してくれてそれから常時何かを製作しているという状態で今に至ります。

いくつか例外はあるものの、作る模型は「第二次世界大戦期の日本の飛行機」ばっかりです。どういう訳だか子供のころから大好きでして、戦闘機に限らず、爆撃機や攻撃機、偵察機でも日の丸がついていれば、なんでも作ります。ごく稀に日本と干戈を交えた米軍機や技術的に面白いドイツ機なども作りますが、思い入れが少ないので、どうしても塗装方法や製作方法の実験のためという感じになり、すぐに日本機に戻ってきます。

ご興味のある方向けにこれまで作ってきた飛行機のプラモデルを(恥を忍んで)晒してみようと思います。

■零式艦上戦闘機二一型(ハセガワ 1/48)
記念すべき出戻り一作目です。零戦と言えば「これ」かなと。スプレー缶と筆塗りで作りましたが、今見るとヒドイ出来ですな。塗料が厚すぎる、ハゲチョロが適当すぎる、工作が雑すぎる、窓枠が汚いなど粗だらけです。ともあれ、これが完成したのでプラモデルの趣味が復活した訳で、その意味では「記念すべき」なんでしょうね。やっぱり。


■一式戦闘機「隼」二型(ファインモールド 1/48)
海軍の零戦を作ったら、陸軍の隼を作らないとという理由で作ったのがこれです。銀塗装の難しさを思い知りましたね。なんだかアルミ(ジュラルミン)が痛んだ風になっていますが、実際には研ぎ出しに失敗して下地が出てしまっているだけです。ファインモールド社の隼は素敵な形状なので、再度挑戦したい機体です。



■零式艦上戦闘機五二型(タミヤ1/48)
映画『永遠の0』を観た友人から、是非主人公の宮部機を!という声がでました。で、タミヤ社も新金型で1/48の零戦を映画とタイアップして発売したので乗ったというものです。暫くは1/48のキットとしては決定版でしょう。精密さもそうですし、部品の刷り合わせも完璧で腕が伴わないのが悲しい、タミヤ社の実力を実感できるキットでした。リクエストをいただいた方に貰っていただけた機体です。同じシリーズのニニ型はまだ買ってもいないので、そのうち作りたいと思っています。いつになるやら。


■局地戦闘機紫電一一型(ハセガワ1/48)
妻の実家の傍にあった谷田部海軍航空隊所属機を作ったら、義理の父の部屋あたりに飾ってもらえるかなと思い製作した機体です。この紫電あたりから、ようやく「それらしい」塗装やウェザリングができるようになってきたようで、Facebookでも褒めてもらえるように。下手なりに多少の進歩を実感したような気がする機体です。過分にも妻の実家でガラスケースの中に飾って頂いています。


■二式単座戦闘機二型乙(ハセガワ1/48)
松本零士氏の「戦場まんがシリーズ」にあるこの戦闘機の出てくる「成層圏戦闘機」が大好きでした。靖国神社を参拝した折、遊就館で写真集を見つけてしまい、これは作らねばならないということで製作しました。初めてリベットを打った思い出深いキットです。娘が生まれたので「鐘馗」という愛称を持つ、この機体に守ってもらおうと、我が家の飾り棚で上空をにらんでおります。これについては尾翼マークが「赤」の可能性が高いようで、機会があればまた同じ70戦隊の吉田機で作りたいと思っています。


■九七式艦上攻撃機一二型(ハセガワ1/48)
ハワイへ家族旅行を計画した際、「それなら真珠湾だ、アリゾナメモリアルだ」と一人で勝手に盛り上がり、真珠湾攻撃の総指揮をとった淵田中佐機をということで、作ったのがこのキットです。大口径砲を持つ戦艦が魚雷を抱えた飛行機の前に無力であることを証明した機体なので、魚雷を抱えさせたかったのですが、史実として爆弾を抱えていたので、泣く泣く爆弾を抱えさせたものです。大型機なのでリベットが大変でした。出来は・・・まだまだですね。


■ヴォートF4Uコルセア(タミヤ1/48)
近所の昔からある文房具屋兼プラモデル屋のご主人が店をたたむということで、全ての商品を半額で売っていました。そこで1/48のめぼしいモデルをまとめ買いしたものの内の一つです。同じ時期に行きつけのプラモデル屋に好意で譲っていただいたタミヤの缶スプレー「ネイビーブルー」を使える機体ということでチョイスしたのがこれです。特に思い入れもないのでリベットレス。ただ日本機と比べて足回りが特に「よくできているなあ」という印象。プロペラも大きく、なかなか飾り映えするキットです。ディズニーのプレーンズにも登場したので、いつか甥っ子あたりが欲しいと言ってくれないかなと。


■局地戦闘機紫電二一型(ハセガワ1/48)
出張で松山に行く機会があり、松山=343空=紫電改=菅野大尉と考えて製作したキットです。インスタグラムのメジャーなアカウントに取り上げてもらい、いくつかのSNSグループに参加する切欠になった作例になりました。紫電同様、妻の実家で分不相応に飾っていただいています。ともあれ、取り敢えず平筆を使った筆塗り暗緑色なら、まあこのぐらいは作れるという自信がつき始めた時期です。とはいえ、超有名機なので、作例も多く
まだまだなのですが。


■二式複座戦闘機 丁型(ハセガワ1/48)
筆塗りで迷彩を再現というテーマで作成したものです。もともと飛行機にハマる切欠となった書籍が元パイロットの親戚にもらったサンケイ出版の「屠龍」という本だったので非常に思い入れのある機体でして、「丁寧に丁寧に」制作しました。その割にいつもとレベルは変わらないのですが。鍾馗と共に我が家の飾り棚の上で魔除けとなっています。


■局地戦闘機雷電二一型(タミヤ1/48)
田中式筆塗りというデカール(スライドマーク)やエアブラシを一切使わず、極細の面相筆だけで塗装する技術を知り、その練習として制作しました。キットは40年前に発売された古いものなので部品点数も少なく、リベット打ちの後は塗装に没頭できました。日の丸も含めて全て筆塗りです。作例の出来はともかく、新しいスキルを身につけられた作例となったと思っています。



ちなみに今はMe262を作成中です。
熊本の師匠、皆様いかがでしょうか??



2017年1月26日木曜日

減点法、或いはノーコンティニュークリア

誰にだって難しいが我々日本人が特に苦手にしているのがいわゆる「損切り」である。投資用語としては解説不要だろう。しかし投資以外のビジネスの現場でも「損切り」が下手だと感じることがある。例えばある企業で何か新規事業をはじめたとする。アイデアを出し、企画書を作り、事業計画を立てたとしよう。欧米発のビジネス理論が一般的になっているので、当然その中に含まれてはいるものの、ついぞ実行されない計画がある。それは「撤退プラン」である。新規事業は難しい。新規性が高く、画期的(と企画者は信じる)であればあるほど、成功の確率は低い。千三つ(3/1000)の確率でしか当たらないと言われている。撤退プランには撤退条件が書かれている。例えば「2年以内に黒字転換しなければ」や「3年以内にXX億円の売上・X千万円の粗利に到達しなければ」などである。だが、これはまず実行されない。撤退条件は案外簡単に現実化する。というよりその可能性の方が圧倒的に高い。だから撤退プランはいつでもどこかで発動していなくてはならないはずだ。しかしこれがなかなか出来ない。これまでに注いできた労力が水泡に帰すと同時に「失敗」の烙印を押されることを非常に恐れるからだ。その結果、赤字を垂れ流しながら事業を継続し、あるタイミングで特損を出して会社自体が左前になるなどということは珍しくない。

なぜそこまで失敗を恐れるのだろう。
どうもわれわれは人や事業を「減点法」で評価するのではあるまいか。一人の最初の持ち点は100であるとしよう。つつがなく日々の業務を全うしているだけでは持ち点は維持できない。雇用者や上官が期待する内容をこなし続けて初めて持ち点が維持される。飛びぬけた成功があれば持ち点が一挙に増えることはある。だがそんな大成功は滅多にありはしない。すると結果を出し続けつつ、如何に失敗しないかというのが評価の基準となる。万一失敗してしまったら、それを取り戻すことは難しい。例えば-50の失敗をしたとしよう。「結果を出し続けつつ、失敗しない」というのはなかなか大変な努力が必要だ。それでさえ、毎日少しずつ目減りする評点を維持するのが精一杯だ。たとえば毎日何もしなければー1になるとすれば、毎日の努力は+1程度の評価になる。だが、失敗は簡単かつ短期的にー50の評価を招いてしまう。そうすると、普通に努力しているだけでは持ち点は50のままであり、日ごろの倍の努力で少しずつ51⇒52⇒53となるだけだ。三倍で53⇒56としていくこともできるが、とても身体が持つまい。その結果として、人は極度に「失敗」を恐れるようになる。むしろ「失敗の責任者」であることを極度に恐れるようになるだろう。だからこそ「失敗の責任」を少しでも回避すべく立場を利用して「部下」を中心とした他者へ責任を転嫁するようになる。


ではなぜ減点法で評価するのか?おそらくこれは農耕民族、それも北限での稲作民族であるという歴史と無縁ではあるまい。南方での農業であればそれほど神経質にならずに米を作ることはできるだろう。何しろもともとが南方原産のものなのだから。しかし、北限の米作ではそうはいかない。丁寧に手入れされた田んぼを作り、種籾を発芽させ、病虫害に気をつけながらそれを植える。明確な四季があるために、田植えのタイミングも水の調整もシビアだ。しかも稲作は重労働かつ労働集約的で、人の流動性に弱く、極度の協調性を要求される。何しろ失敗すれば稲は全滅し収穫ゼロもあり得る。これほどの努力を日々続けて得られるものは当初植えた田んぼの面積とほぼ等しい(若干少ない)収穫である。それを1000年以上続けてきた民族が我々なわけだ。これは減点法の評価が我々に染み付いている大きな原因の一つだろう。

更に日本人は言い訳を嫌う。少なくとも言い訳をしないことに美学を感じる。言い訳には釈明という側面もあるが、失敗の原因を特定して対策を立てるという機能もある。だが稲作は作業として確立されており、失敗の原因追及は不要だ。だから失敗があるとすれば個人の都合による「サボり」なはずである。従って言い訳はただ個人の責任回避の為でしかないはずで、それは組織労働のノイズでしかない。だが稲作のような確立された作業以外でも「言い訳するな!」で封じられる。その結果、原因特定はほぼ不可能になり、原因追求はなされなくなり、組織的思考停止に陥る。

さて、農業は天候に左右される。台風等の自然災害はもちろん、冷夏でも、多雨でもだめだ。ある条件下でイナゴでも大量発生しようものなら、あっという間に作物は全滅する。これは今でも人知を超えており、回避することはだいぶ出来るようになったものの完全コントロールすることはこれからもできそうにない。

それなら出来ることはなにか?西洋人なら神に祈ったであろう。日本人も神には祈っただろうが、あいにく日本の神々は一神教の神々のように全知全能ではない。だから神々にもそこまで期待できない。
できることと言えば「不吉なことが起こらないように」と心中で祈ることだけだ。そうなると「不吉な」言葉を忌避するようになり、その言葉を使う人間を同じく忌避するようになる。言霊信仰といってもいいが「縁起でもない」というやつである。こうなると失敗は不吉そのものなので、それを分析することは難しくなる。「言い訳」は後付でなされた不吉な予言のようなものだから(事後予言という)、到底受け入れられるものではない。撤退プランとは最悪のことを想定して被害を最小限に食いとどめるためのものだが、その想定すら不吉なものであり、非常に忌避されるようになる。これは我々が失敗を直視・分析できず一度ジリ貧になるとそこから抜け出せない理由の一つであろう。そして失敗者は「不吉」なのだ。誰が二度と使うものか。

減点法で評価され、言い訳はゆるされず、ノーコンティニューで事を成さなくてはならない。これがわれわれの社会であることをまずは直視する。この体質は戦前も戦後も変わっていないように私には思える。この体質は平時には非常に効率的になる。平時とは「目的と手段が明確であり、ルーティンや決まった手順をこなすと目的が達成できるような状態」のことである。大正デモクラシーから昭和初期にかけて、あるいは戦後の高度経済成長期からバブル崩壊までは「何をどうすればよいのか」がわかっていた時代であり、それゆえに比較的日本は力強く成長していた時期である。この場合、日本の減点法はかなり協力に作用する。強制しなくとも末端まで役割を理解して、高い品質かつ効率的に物事をすくめていくことができる。

しかし非常時はそうはいかない。非常時とは「目的は自明ではなく、手段が不明確であり、成功の手順がだれにもわからない状態」のことである。戦時はまさしくその状況であり、バブル崩壊後の日本もその状況であろう。こうなると我々はうまく仕事をすることがむずかしい。減点法ということはどの状態が満点なのかが判っているということだ。それは平時である。軍隊においては戦争をしていない時期のことであり、ビジネス(なんであれ市民生活)においては、何をどうすれば勝てるのかが判っている時期のことである。しかし非常時にはその基準が揺らぎ、流動的になっているので、自ら試行錯誤を続けなくてはならないし、誰かが大枠の方向性を(それが間違っているとしても)示し、そこに向けて柔軟に組織ややり方をスクラップ&ビルドしていかなくてはならない。

しかし、大枠の仮説を立て、スクラップ&ビルドを繰り返すことに「減点法」「言い訳無用」は適さない。帝国陸海軍の上層部の評価の基準はまず学歴である。陸大、海大卒業時の成績順に出世が決まる。海軍では成績順にハンモックの位置が決まっていたのでハンモックナンバーという。陸軍では成績優秀者に下賜された時計に因んで「金時計組」という。その序列に従って出世が決定した。
平時ならそれでよかっただろう。ところが戦争に突入してもこれ以外の基準を作り出すことができず、出世は一に学歴であった。米国のようにキンメル提督が更迭され、ミニッツが提督に抜擢される(士官学校での成績はあまりよくないが、実戦では抜群だったらしい)ようなこともなかった。
兵器はどんどん進歩し、それに伴って戦術はどんどん変わっていってしまう。しかしながら学校での成績は過去の内容を覚えてアウトプットするペーパーテストが基準になるので、むしろ柔軟に対応していくことは成績優秀者ほど難しくなる。平時なら米国でも学歴で出世が決まる。だが、非常時には「抜擢」による柔軟な組織運用や過去にとらわれない「大枠の仮説」(これを戦略という)ができる人間に任せるべきことを米国は知っていた。

成績優秀者で上層部に入った人々はその時点まで、平時の基準でノーコンティニュークリアを繰り返してきたので、「軍隊と戦争のことは何でも知っている」と自己規定している。だが、現実はどんどん変化していき、その知識や経験はあっという間に時代遅れになる。しかし、すべてを知っていると自己規定しているので、意見には耳を貸さず、自分の知識や経験の中で、現実を把握しようとする。かといって失敗を分析しようものなら、不吉なものに触れないという言霊信仰が頭をもたげてくる。分析しようとした人は「敗北主義者!」という烙印を押され、左遷や冷遇されることになる。(沖縄での八原高級参謀のように)

その結果、平時のやり方にただ固執し、ひたすらそれを繰り返すということになる。否、なった。帝国陸軍は「砲撃」⇒「突撃」⇒「占領」というやり方に固執したため、射程外からの戦艦による砲撃(艦砲射撃)により、大砲群を破壊し、連射ができる自動小銃や機関銃を大量に配置し、突撃してくる敵軍をなぎ倒す、という米軍の新戦術に対応できず、ひたすら「玉砕」という名の全滅を繰り返した。それは戦術をスクラップ&ビルドから新たに構築するということが、失敗したときの再起が難しい「減点法」という評価に阻まれた結果のひとつだっただろう。

もちろん帝国海軍も同じである。第二次大戦の時代、すでに戦艦は時代遅れであった。戦艦は更に強力な攻撃兵器である航空母艦と航空母艦が運用する大食いの「飛行機」という兵器を運用するために必要な補給艦や兵員を輸送する輸送艦を護衛する役目しかなかった。だが、帝国海軍はそれを理解していながら、「撃沈した敵艦の種類による査定ポイント」という時代遅れの評価に固執し、その結果補給艦や輸送艦を叩かず戦艦や巡洋艦ばかり狙った。その結果は当然ながら、各戦域において敵航空母艦と大兵力による蹂躙を許し、帝国海軍は壊滅した。

最終的にとられた戦術は陸軍も海軍も共通して「特攻」である。結局のところ作戦としての「特攻」とは、どれほど言葉を飾ってみたところで、現実に適応しきれなくなった上層部がすべてを投げ出してしまったということなのであろう。

流動化しているビジネスの環境。もはやどうすれば「勝てるのか」は不明確であり、プロダクトやサービスは当然の前提として「ビジネスモデル」の勝負になっている。この環境の中で「減点法」という評価方法を制度的・表面的にでなく、文化的・根源的に克服しないと企業をはじめとした日本の組織は帝国陸海軍の轍を踏むことになるだろう。失敗しつつある事業を「損切り」し、失敗から何かを学び、新しい事業を始め、また撤退し、また始める。これが我々は未だに苦手だ。かつてなら「死んでいった英霊に申し訳ない」となり、今は「これまでの投資をどう回収するんだ!」となる。

ウチの会社は旧軍とは無関係、それは歴史の彼方の話と思うなら、それはそれで仕方がない。また同じ失敗を繰り返すことになるだけだ。これは日本人が逃げてきた「反省」の大きなポイントだと、同じ弱点を持っている私は考えている。